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『コスモス』感想・おまけ

ウルトラマンコスモス』感想・おまけ

 一旦途中まで書いたものの、『ウルトラマンガイア』最終回の内容に触れる事に気付いて消した部分があったのですが、ちょっと勿体ない気がしてきたので、断りを入れた上で、『ガイア』感想の補足の意味も含めて、メモ的に。そして、書いている内に話が飛んで『ネクサス』核心部分にも触れる事になってしまったので、以下、『ガイア』最終回&『ネクサス』核心部分の内容に触れるので、ご留意下さい。

 ……そういえば、まくら代わりの非常にどうでもいい余談として、『コスモス』感想の途中で「エクリプス」か「イクリプス」か完全に混ざっていて、今作的には「エクリプス」であるわけですが、凄く普通に「イクリプス」と表記しているところが多数ある事に気付きました(笑) あと、「時の娘」を何度か「星の娘」と書いていた事も発覚……。
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 以下、今度こそ『ガイア』最終回&『ネクサス』核心部分の内容に触れます。
 『コスモス』感想中で何度か、ムサシ以下チームアイズの地に足がついていない感じを、作品の短所として取り上げてきたのですが、それと引き比べると我夢の方がまだ生活感とかあったな……と考えた時に、ああそうか、『ウルトラマンガイア』というのは最終的に、“今、僕がいるここ(大地)”を再確認する話であったのだな、と。
 巧かったのは、その「再確認」が「最初から身近にあった」ものとして描かれる、つまりはスタート地点に戻るのではなく、「“ここ”に対する認識のアップグレード」を伴っていた事で、だからその時、我夢にとっての“ここ”は、同じだけど新しい場所になっている、のが1年間の物語の積み重ねと融合しており、実に鮮やかであったなと、『コスモス』を完走した事による、数年越しの再発見となりました。
 『ガイア』って基本、「資本」の話で、諸事情で頭脳LV10の主人公が、頭脳LV10だけでは駄目な事に気付いて、肉体・精神・人間性……などのLVを上昇させようとする――特に、「物事の基本は体力!」で、いっけんギャグっぽい筋トレが実に重要な意味を持っていて、「体が資本」が「(人類にとっての)星という資本」に繋がっているわけなのですが、翻って『コスモス』を見た時に欠けていたのは、この「資本」への視点だったのではないかな、と。
 だから、自分たちは最新鋭の戦闘機をぶんぶん乗り回しながら、防衛軍を鼻で笑ったり、怪獣被害に無頓着な部分が悪目立ちしてしまったのだと思うのですが、設定上その辺りは未来エネルギーでカバーされていたのかもしれませんが、やはり一度ぐらい、怪獣被害で発電施設(など)が壊れた為にテックスピナーが発進できない話とか、そういった、アイズメンバーが当たり前のように享受しているテクノロジーが揺らぐ話をやっておくと、現実味のエッセンスが『コスモス』のテーマ部分をより引き立てたのではないか、と思うところです。
 怪獣保護への姿勢や、ノワール星人への対応に見られるように、『コスモス』劇中におけるチームアイズ視点って基本的に「星の資本が無限」の上に立脚していて、それ自体がちょっとした夢物語になってしまっているのですが、既に80~90年代には「星の資本は無限ではない」方が自然な前提ではあるので、『コスモス』世界における「星の資本が無限」のようなアイズ視点は、あまりにも無邪気になってしまったのではないかな、とは。
 その辺りは、ややこしくならないようにオミットしたとは言えますし、ドリームで良い部分ともいえはするのですが、今作の立ち上がりが「現実を変えようとする理想」を掲げていただけに、「夢の上に夢を重ねる」ような構造になってしまっており、それは今作全体の問題の一つである「寓意の上に寓意を重ねる」とも繋がっていて、設計上の問題点になってしまった気がします。
 ……まあこの点については感想本文でも書いたように、そもそも怪獣に寓意を見る側に問題があるのかもしれず、そこを切り離した視線で見るとまた印象の変わる作品ではあるのかな、と。
 そういう点で、見たこともない生き物と友達になりたい、というのは自然に生まれうる感覚であろうとは想像できるので、今作が評価を得た理由の一つとしては納得できる部分です。
 ただ一方でそれは、「怪獣」とは何を持って「怪獣」なのか? 「怪獣」と「巨大生物」の境目はどこにあり、寓意や畏れを切り離してもそれはまだ「怪獣」と呼べるのか? という問題を新たに発生させており、「怪獣を保護する新機軸」を打ち出した今作――ここではあくまで「怪獣」概念はシリーズ従来作からの借り物となっている――が実は「怪獣の概念を解体してしまっている」ならば、「怪獣を保護する」謳い文句自体が幻影になってしまうのではないか、というのもまた、今作の抱える「矛盾」の一つであるかもしれません(この辺りの問題はどうやら、第50話「怪獣密輸!?」などにおいてスタッフ間でも議論があった模様)。
 そう考えてくるとTVシリーズで次作にあたる『ネクサス』は「ならば「怪獣」の概念から世界を組み立て直そう」とした事が見えてきますが、現実を忘れ(ようとし)た世界に、現実から逃げた(ここには「内戦」という極めて現実的かつ社会的な問題が組み込まれる)男が向かい合う時、忘れようとしたもの、逃げてきたものは何かといえば、それは“恐怖”である、と。
 そしてその克服こそが、世界が明日へ向かっていく転換点となるわけですが、『ネクサス』がその“恐怖”を体現する「怪獣」ポジションに、「スペースビースト」という独自の呼称を与えたのも、繋がるところである気がします。
 いい具合に脱線してきて、前後3作が繋がったところで収まりが良いかなと、『コスモス』感想、おまけでした。