『ウルトラマンコスモス』感想・最終話
◆第65話「真の勇者」◆ (監督:根本実樹 脚本:大西信介 特技監督:佐川和夫)
「心を持ったからこそ、カオスヘッダーと理解し合えるんじゃないでしょうか?」
「ムサシ!」
カオスヘッダーの真実を知り、戦う以外の可能性について改めて意識するチームアイズだが、さすがにあれで消滅してはいなかったカオス総大将が地球に出現すると、景気よく街を大破壊。
迎撃に出たチームアイズはありったけのカオスキメラを打ち込むが効果はなく、炎の中に立つ巨大な悪魔の姿が、繰り返される憎悪と戦いの具象化として印象的になるのは、巧い積み重ねとなりました。
(幾ら武器を開発しても、奴らはまたその先を行く。俺たちに出来る事は、もう無いのか?)
だがその時、鏑矢諸島から姿を消していたリドリアスがカオス総大将の前に立つと、対話するかのように声を発し、モグラとトカゲもそれに続いてカオスヘッダーに近づいていく。
「カオスヘッダーの心が反応してる……怪獣たちの心が通じるなら、きっと僕たちの心も」
その様子を見た怪我で居残りのムサシは基地を飛び出していくのですが、チームアイズの行動指針って「保護」ではあるけど「対話」では無いので、どうもその点については作品としてすり替えている印象。
ある種の「対話」といえる“怪獣の行動には怪獣なりの理由がある筈”という理屈でいうならば、「他の生物の命を奪う事ではない」カオスヘッダーの目的は「多様な心の否定」なので、「心を持った」から「心を否定しないのではないか」にはだいぶ論理の飛躍が見られ、その部分の方法論が作品通して確立できなかったのは惜しまれます。
勿論、ムサシは感性の人であり理想主義者なので、方法論に落とし込まない作品としての選択に関しては私個人の好みの問題となりますが、そういうムサシに好感をあまり持てずじまいだったのは、今作と相性の悪い部分でありました。
対話を拒否するカオス総大将の攻撃を受けてリドリアスが倒れ、アイズはそれを守り、現場に駆けつけたムサシはカオス総大将へと呼びかける。
「カオスヘッダー! もし、おまえが人間の心を理解できるなら! 争いを憎む気持ちだって理解できる筈だ! ……もうやめよう。やめるんだ!」
巨大なカオスヘッダーに呼びかける生身のムサシの姿は、なかなかいい絵。
「カオスヘッダー! 僕はもう、僕は戦いたくないんだ!」
その呼びかけに混乱を示しつつもやはり拒絶したカオス総大将はムサシに攻撃の矛先を向け、ムサシが無残に消し飛ぶ寸前、それを救ったのは月面に消えた筈のウルトラマンコスモス。
「君の勇気が、残り少ない私の力に、最後の炎を灯してくれた」
「コスモス! 僕はカオスヘッダーを救いたい!」
それはいいけどとりあえず一発殴りたい、とコスモスはひとまずコロナし、戦闘シーンが……あった!
登場時点からカラータイマーが点滅していたので、エクリプスするにはエネルギーが足りないという事だったのでしょうが、全世界のコロナモードファン歓喜のバトルにより(2021年の振り返りランキングで触れ忘れましたが、コロナモードも不憫部門……)、ムサシの制止の声も届かず、炸裂するスペース鶴拳からの、海老反り返し。
だがコスモスは既にフィニッシュ光線を放つガッツを失っており、逆に反撃を受けて地に倒れてしまう。
再び、怪獣の呼びかける声がカオス総大将の足を止めるもコスモスへの攻撃は緩まず……今度こそ絶体絶命の時、ムサシの手にした青い水晶が光を放ち、その力を用いたムサシは、自らコスモスと一体化。
「コスモスとムサシが、また一つに……!」
主題歌が流れる中、復活した蒼きコスモスは、カオス総大将の猛攻を受けながら、沈静化光線を流し続け……
愛ってなんなんだ? 正義ってなんなんだ? 力で勝つだけじゃ何かが足りない
は、『コスモス』らしいクライマックスの構図となりました。
キャップは、この場に居る全ての命を失わせない為に、カオスヘッダー本体を攻撃せずに、その放つ光球だけを撃ち落とすように指示。
「みんな行くぞ! 全ての命を守る……それが、俺たちの究極の目標だった筈だ!」
……そうは言っても、カオス総大将の出現時の破壊活動で結構な人命が犠牲になっているのでは……とは、どうしても思ってしまうところではありますが(まあさすがに、四の五の言わずに打って出ましたが)、この点、シリーズ従来作においては、「怪獣とウルトラマンのバトルにともなう破壊行為は基本的には被害としてカウントしない」という作り手と受け手の共犯関係、エンターテイメントを成立させる為の“大いなる虚構”が存在していたのですが、「怪獣被害」と「怪獣保護」を天秤にかける今作コンセプトは、その共犯関係と極めて相性が悪い――「被害」とのせめぎ合いが生じないと選択の意味が出なくなってしまう――点を、初期段階で整理しきれなかった、そして、道中で向き合って一定の筋道を立てる事ができなかったのは、今作の残念であった部分。
新しいコンセプトを描こうとする時に、それが従来の文法と衝突してしまうものならば、その衝突を回避する新しい文法を作り出してほしかった、と思うところです。
極言すれば、今作の抱える問題点はそこに集約されるかな、と。
勿論、「テロの連鎖」を断ち切る、という点においては、命を命であがなわない姿勢を示す事の意味は強く存在するのですが……劇中でずっと続いてきたチームアイズの周辺被害への意識の薄さ、市民生活に対する距離の遠さが、最後の最後まで、どことなく浮き世離れした思想活動性を、アイズの印象から拭いきれませんでした。
撮影の都合や、当時の劇構造の事情などもあれこれあったのだろうとは思いますが、20年後の今見て思う事としては、ムサシは出来れば、市井の中で起居するキャラにした方が良かったのではないかな、と。
がっしりと足を付けた生活の場があってこそ、ムサシの語る“夢”物語もより色鮮やかになったと思うのですが、『ガイア』と比べてさえ、極めて生活感の薄い主人公になったのは、(それはそれで意図があったのだろうとは思うものの)作品テーマを訴えるという部分においてはマイナスに働いた気がしてなりません。
(※なお、これは本当に作品の描き方次第の要素なので、どちらが良いとか悪いとかの話ではありませんが、2000年前後の東映ヒーローと対照的なアプローチなのは、時代の文脈として見る時に面白い部分かも)
カオスヘッダーの放つ光弾をチームアイズが端から撃ち落としてコスモスを援護する中、ひたすら回避も防御もせずに沈静化光線に徹するコスモスの姿は、今作の到達点として充分に納得できるのですが……
カオスヘッダーさんの
「コスモス……おまえは、人間のために、怪獣の、体を変えた」
発言がある為に、若干、強制的に精神を改造しているように見えなくもないですね……!
そして、長時間に渡る施術が終了すると、動きを止めたカオス総大将の体は金色に包まれてその姿を変え(なんとなく、カオスヘッダー伝承が残っていた彗星の守護神に近い雰囲気もあり)、憎しみや争いを捨てたカオスヘッダーは自分たちの世界へと帰り、コスモスはムサシを排出。
「カオスヘッダーとも、共存できる可能性を、君は、教えてくれた。私も及ばぬ、本当の愛の心を、君は見せてくれた」
「コスモス……その心を教えてくれたのは、あなただ。あなたがいてくれたから僕は、本当の優しさも、強さも、勇気も知る事が出来た」
最終決戦、「ムサシがコスモスに命を与える」事で、「戦い続け傷ついたヒーローに地球人の側が報いる」構造になったので、このままムサシとコスモスが完全融合するのだろうか、と思ったらそんな事はありませんでしたが、ムサシが部分的にメンターとしてのコスモスを超えつつ、それはそもそもコスモスに教えてもらった事だと、教師と生徒の関係として一回転。
「これからは、君と、仲間達で守るのだ。全ての命を」
「……コスモス……僕はもう一度あなたと、一緒に飛びたい。子供の頃のように!」
「ムサシ……君はもう、一人でも、飛べる」
「コスモス……!」
本編通して、基本的に“子供の(夢の)代弁者”として描かれてきたムサシですが、最後にその、子供時代との決別が、コスモスとの別れの形で描かれ、一つの夢を貫き答を出して見せたムサシが、“人の抱える業と矛盾”を見つめ向き合いながら一歩一歩ずつ進んでいくのは、これから、という事になるのかもしれません。
そしてそれは、人の仲間たちと共に、なすべき事である、と。
ここの構図は、例えば同じ円谷なら『電光超人グリッドマン』の最終回に意味づけが近いのですが、ムサシ以下チームアイズのなりが大人な事で生じたひずみというのが、作品全体を少しずつ斜めに傾けていた部分はあったのかなと思うところです。
コスモスは地球を離れて宇宙へと飛び去っていき、それを見送るチームアイズ。
「少なくとも、夢を持たない限り奇跡は起こらない。夢を追いかけ続ければ、きっと……」
「実現するまではいつも、夢物語だったんだよ。それでも、多くの名も無い者たちが、夢物語に憧れ、命を落とし、夢を継いできた。
……私たち建設クルーが、ジェルミナ3の事を、“時の娘”と呼んだのは、自分たちが、夢を継ぐ者の一人だっていう、誇りがあったからだよ。
ムサシ……あんたもそうじゃなかったの?
たとえ今は成し遂げられなくても、夢を忘れず、繋ぎ伝えていけば、それはいつかの現実になるかもしれない。
人間が、地球で生まれた怪獣と、可能な限り一緒に生きていこうとする。そんな話、今は夢物語かもしれない。
けどあんたは、それがいつか実現すると信じてきたんじゃなかったの?」
「……きっとまた僕たちは、コスモスに会える」
今は無理だからと諦めたり切り捨てる事なく、夢を追いかけ続ける事が現実を変えていく勇気の力になる――たとえ小さな一歩でも、夢を持ち、追いかけ続けることが大切なんだ、と『コスモス』全体のテーマが「夢」に集約され、初期EDテーマが流れ出して、終幕。
EDが流れ出すところは非常にはまり、本作メインといっていい、根本-大西-佐川の座組で、これが『コスモス』、というところへ着地されてくれたのは、良かったです。
「夢(理想)」「現実」「奇跡」の対比は物語の最序盤で盛り込まれていたので、ある程度は狙ったポイントへの着地だったと思うのですが、第13-14話時点で、『コスモス』そこまでの問題点をあぶり出すと同時に、今後向き合うべき課題も軒並み取り上げ(残念ながら概ね黙殺されましたが)、更には作品を貫くコアテーマとなりうるものを主題としてフォーカスしていた太田愛さんの慧眼、改めて恐るべし。
基本的に、“「怪獣保護」のコンセプト”が大きなウェイトを占める作品なので、20年後の今見ると、コンセプトの鮮度が薄れている分、コンセプトに合わせて組み立てきれていない設計の粗さの方が目についてしまいがちでしたが、特にこの20年の間、災害被害に関する解像度の上昇と、シリーズにおける“怪獣被害を劇中でどう取り込むか”の模索が周期的に見られた事もあって、むしろ焦点を合わせてもいい今作で、その部分の掘り下げがほとんどなされないのは、遡ってのことですが、物足りなさの出る部分になってしまいました。
ここはだいぶ、20年の間で作品を取り巻く世界の方が変わった点かな、と。
作品としては、“「矛盾」に向き合う”事よりも“「夢」を追いかける”事を選択しており、オチのまとめ方は嫌いではないのですが、個人的な好みとしては道中もう少し、“自分たちの問題”として人間の業とぶつかって欲しかったところです。
そしてその「矛盾」は、今作の抱える「怪獣エンタメとしての矛盾」でもあり、そこを矛盾しながら「カオスヘッダーを用意した矛盾」でもあり、物語の内と外に複数の「矛盾」を抱えていたのが『コスモス』だと思うのですが、それら一つ一つを整理していくよりも倉庫の隅にまとめておく事を選んだ結果として、良くも悪くも普遍性よりも時代性に引き寄せられた面があり、しかし故にこそ“その時”の作品になったのかと考えると、そこはまあ、狙いが好みと違った、という事でありましょうか。
最後にまたちょっとくどくどしくなってしまいましたが、以上、『ウルトラマンコスモス』感想、長々とお付き合い、ありがとうございました。