“彼ら”の過去と現在と未来
先日、『光戦隊マスクマン』第20話感想で触れた、
いう部分からちょっと展開してつらつらと雑文です。
そう見ると、今作が「戦隊メンバーの過去」に少なからず触れているのは『ダイナマン』『チェンジマン』ではほとんど見られなかった要素である、というのが浮かび上がり(『バイオマン』は未見につき不明)、前作『フラッシュマン』では「5人揃って一つの過去」にしてしまった事が作劇の硬直を生んだ問題点を改善しつつ、より“私”の部分を押し出す為の設計になっているのだな、と。
サンプルは、流れを追う為にとりあえず80年代曽田戦隊から。以下、『ダイナマン』『チェンジマン』『フラッシュマン』最終盤までの内容に触れるので、ご留意下さい。
1・「過去」を持たない科学戦隊
ダイナマンの場合、メンバー5人がそれぞれ科学者であり「宇宙人と会ってみたい」「動物と話せるようになりたい」と個々の未来への目標は持っている一方、何故その道を志したのか? という部分にはほぼ触れられておらず、第1話の次回予告ナレーションに語られる「戦うだけではない、子供達と一緒に夢を追うのだ!」というのが作品、そして戦隊としての基本スタンス。
“科学技術のもたらす明るい未来への展望”を体現するのが、特に逡巡なき「悪を倒す正義の味方、ダイナマン! 爆発! 科学・戦隊・ダイナマン!!」の5人であるといえます。
一方で、物語終盤において、夢野博士の「過去」が明らかになり、その悔恨と贖罪が描かれる事により“科学技術の負の側面”が浮かび上がり、
〔ダイナマン・科学技術のプラス面・未来/夢野博士(他)・科学技術のマイナス面・過去〕
という対比構造を持って互いの陰影を明確にする事により、幾つかのエピソードと合わせて「科学(技術)をどう用いるのか?」というテーマ性が作品に一つの芯を通したのはお見事でした。
また、そこで「過去」=「負」としてのみ切り捨てるのではなく、プラスもマイナスも含めて、過去があるから現在が、そして未来がある、事がダイナマンの存在そのものによって証明される、というのが物語全体の構造になっています。
更に、敵方のメギド王子が「いかにも四本尻尾の王子、いや、もはや尻尾などないメギドである!」と、自らの愚かしい「過去」を乗り越える姿で「現在→未来」へと、成長するものとして描かれ、ダイナマンと同じステージに上がる事により、互いの種族の「未来」を賭けた最終決戦へ雪崩れ込む、というのは改めてお見事。
「現在を過去にしていく」というギミックが、作劇の要請もあって、ある程度まで完成されたヒーローであるダイナマンではやりにくい点を逆手にとって、敗北を余儀なくされていく敵方のメギド王子を用いて描かれる、というのは実に巧妙なアプローチでした。そしてジャシンカ側においては、柱石カー将軍は既に亡く、尻尾にこだわったアトンとゼノビアは「過去」=「負の遺産」として葬り去られている事が、ダイナマンと対を成している、ともいえるでしょうか。
2・非対称な電撃戦隊
『バイオマン』未見につき、一つ飛ばして『チェンジマン』もまた、メンバー個々の過去にはあまり触れられていません。
唯一明確なのは飛竜の高校球児設定ですが、高校球児→ドラゴンボール事件で野球引退? から地球守備隊への入隊経緯についてはまったく空白であり、「軍人」としての強いモチベーションが特に語られる事もなし。飛竜と勇馬には一応、「モテたかったから」「トンカツ屋の開店資金を稼ぐため」とそれぞれキャラクター性と繋げた動機が与えられていますが、それがパーソナルな過去と繋がって紐解かれる事はなく、女性メンバー2人に関しては、完全に過去は不明。
基本的なキャラクター性はそれぞれ、「元の所属部隊」に基づいており、「軍人である」事そのものがキャラクターの規定として「過去・現在・未来」の全てを統一している「今を戦うプロフェッショナルチーム」とでもいいましょうか。
一方で、敵方のギルーク遠征部隊は概ね、「大星団ゴズマの侵略被害者であり、現在はその尖兵とされており、いつか元の生活(母星)を取り戻したいと願っている」という、極めて明確な「過去・現在・未来」を与えられているというのが、作品構造としての大きな特徴になっています。
終盤に明かされる長官ポジションの過去も、ゴズマ側との親和性として機能しており、主にゴズマ側の持つ「過去・現在・未来」の要素が、チェンジマンの戦いを変質させていく、というのが今作の構造。
3・過去を抱える超新星
続く『フラッシュマン』では一転して、(中国残留孤児の問題が企画時点で意識されていたそうですが)、戦隊メンバー5人に「幼少期にエイリアンハンターにさらわれて異星で育てられた」という過去の出自と、それに基づく「故郷の地球での家族探し」という目的が与えられ、「故郷をメスの侵攻から守る」というヒーロー(公)としての目的と、「家族探し」という個人(私)としての目的の二つを持っている、というのが大きな特徴。
前作『チェンジマン』が、後半戦隊メンバーの個性が薄くなった反省もあってか、物語と密接に繋がる過去と強烈な動機付け、固有の特殊能力により戦隊メンバーの個性を強めようという狙いも含め、二つの目的を分けて持つというコンセプト自体は非常に面白い試みだったと思うのですが、「同一の壮絶な過去」を持ったヒーローがあまりにも一蓮托生になりすぎてしまい、かえってメンバーの個性が薄くなってしまったのは残念だった部分。
物語としては「過去の克服と未来の獲得」が大きなテーゼといえ、過去を克服する事により、ようやく個々の未来への視線が生じる……筈だったのかとは思うのですが、「家族捜し」というギミックが消化しきれない形に。
また今作では、戦隊サイドの過去に重きを置いた分、敵サイドの過去要素は弱かったのですが、最終盤にケフレンの出自が明らかになり、そこにカウラーが絡んでくる、というのも唐突になってしまい、戦隊サイドの過去と、悪役サイドの過去を繋げる事によるドラマ性の飛躍も、あまりうまく機能しませんでした。
この辺り、戦隊としては未来志向が強い方が、作品として巧く転がりやすいのかな、とは。
4・そして光戦隊
まだ半分より手前なので、今後どうなっていくかわかりませんが、マスクマンの特徴といえるのは、メンバーそれぞれの過去がそれなりにスポットを当てられつつ、その過去と現在そして未来とが、分断されている事。
大雑把にまとめると、5人それぞれが武術家(広義)としての経歴を持ち、それ故にマスクマンにスカウトされているのですが、5人はその後、光戦隊のトレーニングの一環として姿レーシングチームを結成する事になり、ここで一度、それぞれの過去との分断が発生しています。
その上で、5人の未来の目標も、「いつの日か、このマシンを完成させて、グランプリを制覇するのが夢」と、光戦隊の仮初めの姿であったレーシングチームに接続されており、(タケルは不明瞭ですが)修業時代の経歴と直接的な関係がないものが未来図となる事に。
身も蓋もない話としては、5人の戦闘能力に理由を付ける為の出自であり、それ故に「現在」とは分断がはかられている(ドラマ的な関連性が薄い)、という面はあるのですが、それが結果的に、「光戦隊の表の顔としてのレーシングチーム」が「裏社会で生きてきた5人が手に入れた表の顔」に思えて、光戦隊の深い闇のイメージを強くしているように思えます(笑)
一方、チューブサイドでは、地底世界における統一戦争の存在がかつてあった事が語られ、イガム王子を中心とした「過去」の要素と、恐らくそれに対比されるであろうイアルとタケルの関係の持つ「未来」性が序盤から仕掛けられており、80年代戦隊における作劇の洗練が窺えるところです。……今後それが、巧く噛み合っていくのかはわかりませんが。
というわけでざくっと思いつきで、80年代中盤までの曽田戦隊を、戦隊サイドと敵サイドの持つ「過去・現在・未来」という視点で考えてみましたが、こうなるといずれ『ゴーグルV』と『バイオマン』をしっかり見なくては、と思うのでありました。後、上原大先生時代との比較や流れなんかも検討してみたくなる所でありますが、とりあえず本当にざくっと書いたので、事実誤認や見落としなどありましたら、ご指摘いただければ幸いです。