或いは、『キカイダー01』総括へ向けてのメモ
1993年の《メタルヒーロー》シリーズ作品『特捜ロボジャンパーソン』は、3年続いた<レスキューポリス>シリーズの陥った行き詰まりを打破すべく、敢えて「最強無敵」「傍若無人」「絶対正義」という70年代ヒロイズムの化身的な主人公を正面から第1話において叩きつけてくるのですが、その宣言として印象深いのが、上記の叫びに応えるかのように響き渡るサイレン! やってくるスーパーカー! そして風を切るJPカード!
「最悪だ、絶望だ、神も仏もないのか!」
「助けてぇ、誰か、助けて!」
(『特捜ロボジャンパーソン』第1話「謎の新英雄!」)
「ジャンパーソン・フォー・ジャスティス!」
という初登場シーン。
その後の紆余曲折で明らかになっていく実態はさておき、このジャンパーソンにおけるヒーロー宣言は個人的に大変印象が強くて、根源的な“ヒーロー”とは何か、という部分について極めて示唆的だと思うのですが、脳がもう少し動いてきたらその視点から『キカイダー01』に切り込んでいければなとか思っている次第。
なお、『ジャンパーソン』と同じく純粋ロボットヒーローであり、より直接的に『キカイダー(01)』を意識していると思われる、1987年の『超人機メタルダー』第1話の主人公は、こんな感じ。
だいぶ悩み深いところから始まってますが、生みの親が典型的な東映駄メンターだったのが不幸。
「風よ、雲よ、太陽よ、心あらば教えてくれ。なぜこの世に産まれたのだ」
(『超人機メタルダー』第1話「急げ!百鬼魔界へ」)
あと『キカイダー01』と同時期のヒーローでは、まさに“代行者”であり“化身”そのものであるコンドールマンが非常に印象深く面白いのですが、川内ヒーローへの知識がこれ以外はほぼ無いのでちょっと掘り下げづらく、課題であります。
この後、2009年に『仮面ライダーオーズ』が正面からこのテーマを取り込んでくる意欲的な作劇を見せるのですが、その辺りを一度、まとめてみたいなぁという願望もありつつ、風呂敷広げすぎるとまとまらなくなるので、とりあえず、どうしようかな、と取っかかりのメモまで。
「やめろモンスター! 正義を守るコンドールマンだ。人間の皮をかぶったモンスターども。 太陽の神に代わって打ち砕いてやる!」
(『正義のシンボル コンドールマン』第1話「コンドールマン誕生」)
ちなみに、ジャンパーソンにしろメタルダーにしろコンドールマンにしろ、「死と再生」のイニシエーションを経ているのですが、その点ではイチロー/ゼロワンは、やや特殊といえるかも……まあ、仁王像の中に居た期間を「死」と捉える解釈は十分に可能ではありますが(ジローの「兄」の筈ですし)。と思うと、同時期の『ロボット刑事』のKは、改造手術されたわけでもなく誰かの写し身というわけでもなく(確か)、「死」を経由していないタイプのヒーローであり、探せば他にも沢山出てくるとは思いますが、同時期の石ノ森ロボットヒーロー繋がりで考えると、ちょっと面白い存在だったりするのかも。
もうちょっと後だと、『快傑ズバット』早川健も、「死」を背負っているけど、本人は「死」を経由していない(そして自由な生命力に溢れた)ヒーローですが、しかし毎回、早川健→快傑ズバット、になる為に死んだふり(擬似的な死)を繰り返すので、ヒーローのスティグマからは逃れられていないとはいえます。
80年代戦隊から宇宙刑事ぐらいになると、印象的にもだいぶ「死と再生」のイニシエーションからは離れるようになるのですが(『ジャンパーソン』はこの辺りやはり、敢えて“戻っている”のだろうな、と)……と、だいぶ脱線してきましたが、遠からず、『01』総括というアプローチからなんかまとまればな、と。或いはまとまらないまま書き殴るか。
そんな憧憬の対象である“正しい”イチロー兄さんは、“人造”の存在である、という皮肉はまた、『01』の面白いところであります。
「ビジンダー殿、悪い子供と申されるが、拙者にはその悪い事というのがさっぱり……なにが悪で、どれが善であるのか、拙者には、それがわからぬのでござる。善悪の区別さえわかれば……」
(『キカイダー01』第39話「強敵宇宙人は空飛ぶ円盤で来る」)