東映特撮に踊らされる駄目人間の日々のよしなし。 はてなダイアリーのサービス終了にともない、引っ越してきました。
旧ダイアリー保管用→ 〔ものかきの倉庫〕
特撮作品の感想は、順次こちらにHTML形式でまとめています→ 〔特撮感想まとめ部屋〕 (※移転しました)
HP→〔ものかきの荒野〕   Twitter→〔Twitter/gms02〕

だいたい回復

 無事にブーストされた気がしますが、まだちょっと本調子ではないので、最近読んで面白かった本を簡単にご紹介。

『日本のレトリック』(尼ヶ崎彬)

 現代のキャッチコピーなども実例に引きつつ、主に和歌を題材に、日本の言語表現における様々なレトリック、「見立て」「もじり」「掛詞」などを、西洋修辞学における「隠喩・直喩」などとも絡めつつ詳解した一冊で、かなり面白かったです。
 何が面白かったかというと、「レトリックとは何かを詳解する」事が、「それを用いた作品を分解していく」事に繋がる事で、レトリックを用いた作品の構造に触れ、それが言語化されるのが、個人的に読みでがありました。
 例えば、「もじり」について……


 私たちは全ての文を同じ態度で読むものではない。対象に応じて意識の内にある構えを用意するものである。それはこれまでの文化習得によって身につけた、ある種の物の見方感じ方のシステムである。これを「パラダイム」と言ってよければ、私たちは ある文を読む時、それにふさわしいパラダイムを用意する事によって、それを適切に解釈するのである。
 《もじり》は、文の仕立てを雅の形式とし、その内容を俗なるものにすることで、その応接を混乱させることで面白さを生む。

 とか、ジョン・ケージの『4分33秒』について、「演奏会」というコンテクストと、ピアニストが現れて一定の時間ピアノの前に座る事により時間の区別が発生する事の意味の解説から「見立て」に繋がる下りなどは非常に面白かったです。


 この時間の切り取りによる意味の位相転換は、空間における枠取りに相当するだろう。たとえば、原野の一角を縄で囲って、神聖な場所としたり、所有権を主張したりする時、枠の内と外とは、物理的には変わらなくとも、私たちにとっては異なる応接を要求する。外と内では空間の意味が違うからである。つまり私たちは縄一本あれば、「見立て」によって聖地を作り出すことができる。

 ここから、「見立て」とは、自ら感じたものを示す言語表現のための演技であり、それは言葉の意味分類を変更し、読者に世界の見直しを求めるものなのである、という話が面白いのですが、延々とそういう内容の本。
 普通に色々面白かったのですが、一つ、「縁語」「本歌取り」についての章で印象的な内容がありまして……


 一つの語は複数の引力場に所属する。その中から一つの場を選べば、一連の語の系列が引かれて出てくる。これが縁語である。しかし、その縁語の一つを選べば、その語はまた別のいくつかの引力場に属している為、更に一連の語の系列を第二次の縁語として呼び出すことになる。こうして縁語のネットワークは無限に広がり、重なり合っている。
 語を組み合わせるとは、実は語の属す場を組み合わせているのである。そして複数の意味の圏域を縫い合わせるものこそ、語の「縁」という光の糸なのである。縁語や掛詞は直接には語の統辞のためのもう一つの文法であるけれども、呼び寄せられ、繋ぎ留められるものは多様な本歌やモチーフの圏域であり、そのオーバーラップの中に私たちはある種の映像や諧調を読み取る。

 これは本当に、なんとなーくの話で、具体的に説明は出来ないのですが、なんか、『ドンブラ』っぽいというか、あらゆる《スーパー戦隊》(東映ヒーロー作品)を「本歌」に取って、『ドンブラ』がやろうとしているのは、もしかしたら、こういう事だったりするかもな、と。