東映特撮に踊らされる駄目人間の日々のよしなし。 はてなダイアリーのサービス終了にともない、引っ越してきました。
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関節技の魔法使い

とりとめもなく『ウィザード』の話

 そんなわけで、最終回感想で書き切れなかった事など、思いつくままにつらつらと『ウィザード』について。
 まず改めまして簡単な総評としては、「割と好き」といった感じ。
 第49話における致命傷で主人公の心臓に大穴が開いた事もあって、「凄く好き」とまでは言いにくいところはあるのですが、致命傷の後のラスト2話は割と持ち直した感触で、そこまで積み重ねてきた加点を含めると、着地点としては誤魔化されてもいいかな、ぐらいな気持ち(笑)
 まだ消化しきれていない部分や、後半幾つかの問題を考えると、諸々合わせて「割と」になりますが、ただ明確に好きな部分は幾つかあって、そこの部分の印象が良いタイプの作品ではあり。
 個人的にラスト2話は何が良かったというと、第49話の致命傷を受けた上で問題となっていた「晴人とコヨミの関係性」「“コヨミを救う”とは何か」について、「人間のコヨミを救う」すなわち「コヨミを人間にする」にこだわる――それは白Pと同じ「怪物」の道である――のではなく、晴人(たち)が共に過ごしたコヨミは確かに白Pの作り出した人形に過ぎなかったかもしれないが、それでも「そんなコヨミを救いたい」のだと置いて、「コヨミを救う」と「笛木コヨミを取り戻す」を切り分けた事。
 話の都合もあって人格的に概ね同一とは描かれましたが、元より、残酷な現実としては晴人たちは“生前の笛木コヨミについて全く知らない”わけであり、意図的な仕掛けも含めて「コヨミを救う」と「笛木コヨミを取り戻す」が混線してしまっていたところから、山本発言によってそれを明確に切り分け、晴人もまたそれを自覚する事によって、何も笛木コヨミを蔑ろにするわけではないが、「死者を生者に反転させる」事なく、「コヨミを救う」道筋を作り出したのは、上手い整理であったと思います。
 フィクションとしては、死者蘇生がハッピーエンドの要素としてOKな物語も当然ありますが、「サバトによる大量の死」を基点としている今作の場合は、物語構造全てをひっくり返す事になってしまうタブーであり(やってもいいが、やるならば他の「死」もひっくり返さないと、ハッピーエンドにもグッドエンドにもならない)、サバトの魔力により覚醒した人形コヨミもまたそれに抵触する存在である以上、Wコヨミの再生は行われない、という一線を守ってくれたのも、苦さや切なさは伴うが物語としての筋を通してくれた点。
 そして、いってみれば人形コヨミを“賢者の石の擬人化”とした事により、株価ストップ安だった晴人が、たとえ出自が“物”だとしても、そこに人の心を見て命を賭けられる男となったのは、個人的にはかなり、晴人の好感度回復に繋がったところ。
 晴人らは基本的に、コヨミの背後に、本来存在した筈の人間としての生を見ていたわけですが、その“人”性が(魔術的作用によってか笛木コヨミの魂の影響はあったとおぼしいですが)存在を否定された時に――太陽が沈んだ後に輝く月として、“物”に宿る心の肯定、という要素が強く浮かび上がった事は、クライマックスを劇的にすると共に、晴人のヒーローゲージを、ある程度は回復させてくれたな、と。
 以前、感想にいただいた、kiuixさんのコメント、「物質破壊が絶望の象徴という見せ方が多いきださん」に成る程と思っていたのですが、晴人が最終的に、“物に宿った心も救おうとするヒーロー”になった事を考えると、きださんの中では、「物」と「希望」の接続はかなり意識的に作品を貫く要素であったのかもしれません。
 そしてその「物/希望」を救おうとした時に、妄執に狂った父親により一千万都市の壊滅を代償に蘇生する可能性から解放された、笛木コヨミの魂もまた救われている、のは綺麗に繋がり、主人公の心臓に穴を開けながらも、どうにかこうにか、『ウィザード』の物語をマットの上に着陸させる宙返りになったなと。
 ……そう考えると、第50話において、笛木が人形コヨミの制止を娘のものではないと撥ね付け、人格の一致を明確に否定したのが、個人的な納得に繋がる筋としては起死回生の一手でありました。
 そこで笛木コヨミの魂の影響を見るならば、笛木コヨミは父と自分自身を救おうとしているし、笛木コヨミの魂がどこにも無いと見るならば、人形コヨミが笛木と笛木コヨミを救おうとしているし、そのどちらにせよ、自身の存在の存続以上の何かを誰かの為に願う事こそが、複合体としての人形コヨミの“心”の到達点ともいえるでしょうか。
 また、演技の喜怒哀楽にあまり制限をかけている感じではなかったり、アイデンティティの掘り下げが長らくおざなりだったりで、(ある程度までは意図的だったとは思うものの)「コヨミが特段人形には見えない」というのは今作が抱えていた問題点の一つであり、それが終盤にコヨミの内心の問題で唐突感を出してしまったりもしたのですが、最後の最後で改めて、コヨミの“人”性を救おうとする事によりむしろコヨミの“物”性が強調される事で、終盤のコヨミの言行に筋が通りやすくなったのは、副産物として良い補強になったと思います。
 ガーリーというよりはドール系のファッションだと思ったら本当に人形だったコヨミ、最終盤に登場する笛木邸(のコヨミの部屋)がまた、どこかアンティークなドールハウスを思わせるものでしたが、笛木とは笛吹き男にして人形使いであり、晴人が乗り越えていこうする“過去”への執着こそがその「人形の家」に象徴されていたように思われ、こういうモチーフの使い方や繋げ方は、総じて今作の長所でありました。

 で、“過去”といえばソラ、ソラといえば“過去”(……?)。
 衝撃のロン毛キラー回以降、晴人の対として置かれるようになったソラ/グレムリン、正直この対比がずっとピンと来ていなかったのですが(晴人のネガとしては、白Pが強固ですし)、chi-chanさんとのコメントのやり取りでようやく腑に落ちまして、
 つまり晴人とソラの最終決戦というのは、
 「改造人間である事を受け入れて誰かの為に戦う者」
 vs
 「奇跡の力で人間に戻ろうとする為に、他者を踏みにじることを良しとする者」
 であったのだなと。
 「改造人間」→「魔法使い」のスライドに始まり、特別編でフォーカスされた“悪の力を源とするヒーロー”としての改造人間テーゼの本歌取りに大変意識の強い今作だけに、最後の敵が“人間に戻ろうとする改造人間”なのは(ここまで来るとちょっとメタが強いとは思いますが)思い至ってみると納得度が高いのですが、そう考えるとソラはもしかしたら、「ファントム(怪人)」よりも「魔法使い(仮面ライダー)」でやりたかったのかな、とは。
 最終決戦の構図だけを考えるなら、独自勢力に近い第3の仮面ライダーが、サバトを経て最終的に白Pと対立すると、自身が人間に戻る為に賢者の石を手に入れようとする、方がやりたい仕掛けがわかりやすかったのかなとは思われ……ラストバトルにおけるウィザードの「俺とおまえは違う」も、それは魔法使いとファントムではだいぶ違うのでは……とならずに意味がスッキリ通る印象。
 「過去に戻ろうとするおまえとは違う。俺は全てを受け入れて前に進む。コヨミの心を救うまで!」
 ……まあ、ソラが「魔法使いになれなかった」のは、生前の滝川空の人間性に起因しているので、二人を分かつものはサバト以前に存在していますし、もっといえば「ファントム」と「仮面ライダー」の間に、そこまでの差異を見ていないのかもですが……特別編で「仮面ライダーは怪人のなり損ない」とも言及されましたが、本編の白P主観だと「ファントムは魔法使いのなり損ない」みたいなものなので、「仮面ライダーグレムリン(クラウン、とか?)」にせずとも「ファントムのグレムリン」のままで作り手サイドとしては、ほぼ同類の感覚はあったのかもなと。
 ファントムはファントムで、頑張れば人間社会に適応も可能のようですし(笑)
 ただ最終回で、実現できたかはさておきソラが賢者の石によって人間に戻ろうとしたように、ファントムはやはり「死者」と置かれている印象で、“時の止まった存在”であるからこそ過去への執着から逃れられないが、それに対して魔法使いは「生者」であるから前に進めるのが、晴人に託されたテーゼの一つであったかなと。
 「死者」は還らないが、「生者」は前に進んでいく事ができるし、そこで誰かを救う事ができる、のは香村さん最終盤の熊谷先生回でも主題の一つでしたし、晴人のみならず真由にとっても重要なポイントになるので、一つ今作を貫くテーゼでありましょうか(そこに、改造人間のヒーロー性を置いているというか)。
 生と死の通過儀礼を擬似的に体験し、死をくぐり抜け、乗り越え、ある意味では、置いてきたものであるのが「改造人間」であるとした時、サバトによって死を迎えた後、素体の人格を失わないまま肉体だけがファントムになった――すなわち「死」を引き延ばされた――怪物と化したソラの基本設定には、どこか『ファイズ』のオルフェノク風味を感じる事は感想本文で何度か触れましたが、それが『ウィザード』としてどう消化されたかという辺りについては、まだちょっと歯車がカチッと噛み合わないので、引き続き保留という事で(笑)
 ……多分、『ファイズ』の感想を読み返した方が良いのですが、ちょっと大変で。
 そして読んでみた結果、なんか違ったかもしれない! となる可能性もあります(笑)
 滝川空が、ファントム以前から人中の怪物であった点は『龍騎』の浅倉威も思わせますが、この辺り『アギト』も含めて、初期《平成ライダー》白倉P作品におけるサスペンス色の強さと、「社会的動物としての人間の罪」と「社会性から切り離された異形のヒーローアクション」を組み合わせるアプローチに対する本歌取りを見ていい部分ではあるのかな、と。

 本歌取りと返歌は、今作を特徴付けるといってよいポイントですが、“ヒーローとその戦う怪人が同根である”改造人間テーゼを真っ正面から取り込むにあたって、劇中における「仮面ライダー」→「魔法使い」の言い換えを徹底し、
 仮面ライダー - ヒーロー - 魔法使い〕
 というモデルを構築したのは、個人的に今作の好きなところ。
 中間に普遍的なヒーロー性を置く事で過剰なメタ文脈を防ぐと共に、今作独自の咀嚼が常に意識されるようになったのは、発明だったと思います。
 これが後の大森P作品になると“「仮面ライダー」が作品外部のメタ前提”になってしまうのですが、今作を見ると割とこの後の大森P作品は、『ウィザード』以後の意識があったのかもな、とは。『ウィザード』を踏まえたもの、として見ると、大森P作品における「仮面ライダー」の使い方がもう少し呑み込みやすくなる、のかもしれないとは思ってみたり。
 今作はモチーフの使い方が総じて上手いのですが、〔指輪〕というメインガジェットから「ドーナッツ」「円環」「エンゲージ」「表裏」「(リング状の形態としての)鎖」といったモチーフやテーゼを引き出し、それらを作品の主題の一つである「改造人間テーゼ」と接続してみせたのは、お見事。
 主題歌とOP映像も合わせて、月と太陽――表裏一体の関係こそが作品のコアである点を示し、様々な形で散りばめながら貫いたのは、『ウィザード』の大きな武器となりました。
 武器といえば、忘れてはならないのが、くるくるアクション。
 特徴的なローブの裾をヒラヒラさせながら、「回る」を主軸に据えてのアクションの数々は大変見栄えがして、殺陣の格好良さは非常に光りましたし、それを自覚的に武器として物語を組み立てていたのも、2話完結を基本としてエピソードの尺にやや余裕のある今作では、上手く働く形に。
 序盤のアイテムラッシュを緩和する為に、最初から変身可能な4属性フォームを順々に活躍させていくのも掴みとして入りやすかったですし、武器の用い方など個々の特徴付けへのこだわりが、強化形態であるドラゴンでも貫かれ、捨てフォームが無い作りは良かったなと。
 後半に入ると、あまりにもインフィニティが強すぎて、敢えて他のフォームを使う事の必然性が見えにくい作劇のマイナスを生んでしまう面も出ましたが、その気になればなんでもありの「魔法」モチーフだからこそ、フォームごとの方向性を持たせたのは、中盤まではしっかり機能していてとても良かったと思います。
 ……まあちょっとこう、こいつ魔法使いの癖に関節技好きだな……みたいな筋肉の呼び声が聞こえてきてしまったりもありましたが、鍛えれば鍛えるほど人の体は神秘の泉なので仕方ありません。
 増殖タイムも、実にインパクトのある画になりましたし、インフィニティも、ストーリー面だけ考えると戦力としてはやり過ぎ感があったものの、実質シャンゼリオンインフィニティみたいな造形的な面白さから、嫌いにはなれないフォーム(笑)
 何が無限って筋肉が無限みたいなノーガード戦法に到達したのもちょっと面白かったですし。
 そういえば作品内容から離れる余談ですが、『ウィザード』感想の日記タイトル、当初は今回タイトルみたいに「魔法使い」縛りにしようか……とちらっと考えて、すぐに苦しくなりそうな気がして止めたのですが、結果として第50話感想の日記タイトルにした、
 「君(貴方)は俺(私)の希望」
 に辿り着けたので、縛りをつけなくて良かったなと。
 なんというか、私にとっての『ウィザード』ってこれ、というのをこの時やっと言語化できた感じだったのであります。
 そんなわけで、互いが互いの希望であろうとする意思が車輪を廻す動力となって、昨日を乗り越え、今日・明日・未来……へとグルグル回っていくのが私の中の『ウィザード』観なのですが、思うにこの、“誰かの為に間に合い続けるヒーロー”と“一人の為に格好つけ続けるヒーロー”の同居が、私がウィザードを割と好きな理由の一つであるかもしれません。
 だからまあ、賢者の石/コヨミを静かなところで眠りにつかせた後も、操真晴人は多分、コヨミに格好つける為に誰かの為に間に合い続けようとするのだろうな……という信頼感が、ラスト2話からなんとなく私の感じたものだったり。
 晴人がバイクで走り去って行くラストシーンはかなり決め打ちだったと思われる今作(ザ・《昭和ライダー》なので)、「指輪」と「車輪」もまたモチーフが繋がるのだな、と気付いてみますが、仮面ライダーが走り続ける限り、全ての涙を宝石に変えてやる、最後の希望は消えはしないのでありましょう。
 放映中はマンネリの指摘もあったようですが、基本2話完結形式でエピソードゲストとしっかり向き合う作りは性に合っていましたし、その中で描かれる、喪失から生まれたからこそ“間に合い続ける”ヒーロー像はツボだった今作、この後のシリーズ作品への感触を思うと、私にとっての“《平成ライダー》の分水嶺”に位置する作品でもあるのかなと。
 配信で2話ずつ見た環境の違いも影響はあると思いますが、強化要素の数や話運び、メタ度合いや演出における顔芸濃度など様々な点で、今作ぐらいが楽しくついていける境界線といった感。
 勿論、今作以前の作品でも全て好みなわけではない上で、率直に、ここ10年ほどの《仮面ライダー》はジャンル作品として肌に合わないものが多いのですが、その境目がだいたい今作だな、というのが明確にわかったのは、個人的に一つ収穫でありました。
 それもまた、シリーズが続いていく中で潮の変わり目が生まれたり消えたりするものですが、ジャンルに“求めているもの”の分岐点が、《仮面ライダー》に関しては今作なのだなと……まあこれは何度か似たような事を書いていますが、そういう点ではやはり、《スーパー戦隊》の方が自分はしぶとく好きなのだなと(笑)
 念のために書いておきますと、これは私の好みが時流や現状のジャンルの方向性と合わなくなっている、というだけの話で、ジャンルの在り方を否定する気は毛頭なく、近年は自覚的に距離を取っていたものに関して、一つスッキリするものがあった、という話です。
 それはそれとして、『ド』で終わる魔法使いライダーが終わり、配信作品の視聴に少し余裕が出来たので、希望を求めて『ド』で終わる錬金術師ライダーの視聴も再開したいと思っております。
 ……個々のキャラクターの話とか触れる前に長くなってしまったので、ひとまずはここまでとして、後は構成分析など含めて、落ち穂拾いがあれば別項で書ければと思います。それから、あまり熱の冷めない内に、劇場版の視聴とか。