『忍者戦隊カクレンジャー』感想・最終話
◆第53話「封印!!」◆ (監督:坂本太郎 脚本:杉村升)
通常通りのOPから、地上へとドクロ城ダイレクトアタックが炸裂し、一面の瓦礫の中でなんとか身を起こしたカクレンジャーに襲いかかる、大魔王様@自称本当の姿。
「どうやら本当にこの手でおまえ達を始末しなければならない時が来たようだなカクレンジャー」
「黙ってろ! 行くぞみんな。これが最後の戦いだ。大魔王にトドメを刺すんだ!」
「「「「おう!」」」」
「「「「「スーパー変化!!」」」」」
終盤、要所要所のサスケの啖呵は割と格好いいのですが、結局サスケの格好良さって、やや乱雑なべらんめぇ調の中にこそ光って、公の正義を精神注入棒された後のサスケとは、いまいち噛み合わずじまいだったのが、残念。
変身した5人は大魔王に斬りかかろうとするのだが、それを止めに入る三神将、と端っこに立っているニンジャマン。
「大魔王の誘いに乗るな」
「大魔王は、わざとお前達に斬られるつもりだ」
制止を受けたカクレンジャーが困惑していると、なら儂は街を破壊してくる、と大魔王は姿を消し、三神将は大魔王を斬ってはいけない理由を説明。
「大魔王の正体が、人間の憎しみ、それ自体から出来ているからだ」
「言ってる事がわからない!」
「とにかく、斬らずに、生け捕りにして、封印の扉の中に閉じ込めるのだ」
最終回にして「新しいルール」が発生すると、「高次存在の指示に従って行動する事を求められる」のが、実に『カクレンジャー』。
「これが、おまえ達カクレンジャーに課せられた、最後の試練なのだ」
挙げ句に、年間の総決算は「試練」扱いにまとめられ、「試練」といえば“誰かから与えられるもの”と認識して差し支えないと思うのですが、ジュウレンジャーの戦いが、究極大獣神覚醒の為の勇者育成プログラムであったように、カクレンジャーの戦いもまた、大魔王封印の為の資格認定試験であった事が明らかになり、どうしてここまで、大筋の部分が『ジュウレンジャー』の二番煎じ――しかも下手な――になってしまったのか。
儂はまだ本気を出していないだけだった大魔王の本気とはすなわち、勝負に負けて試合に勝つ事にあり、もはや力勝負では勝てない事を認め、斬られ待ちだった大魔王を斬ると、無数の憎しみの破片になって世界中に飛び散り、再びこの地上は憎しみに満ちて妖怪たちも大挙復活してしまうのだ、と説明が補足されると、
「とにかく、言う通りにやるしかないわ」
が最終回で飛び出してくるの、辛い。
後、前回のアレで、地上から憎しみが一掃された扱いになっていて、怖い。
重ねて、今作の意図としては恐らく、高次存在も含めて広義のチーム:カクレンジャーなのですが、個人的な好みとしては、旅の到達点において“成長した若者たち”に、自分たちの手で答を見つけてほしかったところです。
街の雑踏を誰にも気付かれぬまま移動する大魔王の姿は、恐らくはモチーフの特性も意識して面白い絵なのですが、最序盤を除くと今作、敵としての「妖怪」をどう位置づけようとするかのアプローチは無きに等しかったので、「大魔王の正体が、人間の憎しみ」と言われても、物語の積み重ねから跳ねる部分が特に無いのが残念。
見えざる大魔王は、老婆を突き飛ばしたり、ベビーカーを蹴飛ばしたり、地味だが人の命に関わる悪質な嫌がらせを……と思ったらいきなりビルを派手に吹き飛ばし、前回今回と、物語としては“人の世の影で行われる戦い”を描きたいが、最終決戦としては派手な画も欲しい意識が衝突した結果、どちらかを貫くのではなく、どちらも一緒に入れて取り留めがなくなってしまっている感じ。
倒せない(倒してはいけない)ラスボス、の存在はひねりがあって面白いのですが、大魔王を前に暴力に訴える事ができず、生身のまま痛めつけられて怒り心頭のジライヤが変身しようとしたところで、またも三神将、と端っこに立っているニンジャマン(ここまで一言も喋らず)が止めに入るので、完全に白けます。
「大魔王が憎しみの化身なら、私たち三神将は、愛と、勇気と、希望の化身」
え、ええーーー?!
そしていきなり、自分たちは愛と勇気と希望そのもの、と宣い始め、完全に死に設定になっていたとはいえ、心技体、どこ行った。
まあ別に兼任していても良いとはいえ、前回降って湧いたマジックワードを、これまでそんな気配を欠片も見せていなかった三神将が自称し始め、物語の焦土化が留まるところを知りません。
「全ては人間の心の問題。心の中の戦いなのだ」
怒りや憎しみは完全に消す事ができない、はまあいいのですが……
「心の奥に閉じ込めて、二度と出てこないようにすればいいんだわ!」
と、負の感情そのものに蓋をして封印しようとするのは、それはそれでかなり歪なのでは(笑)
「という事は封印の扉とは……はは、わかったぞ! 誰にでもある、人の心の扉だったんだ!」
「わき上がる怒りや憎しみを、心の奥底へしまい込む扉、それが封印の扉だったのか!」
一応、それまで見当の付かなかった「封印の扉」の真実にサスケ達が自ら気付く体裁は取るものの、2回の制止から散々ヒントを出して誘導された末なので、全く格好は付きません。
「その通りだカクレンジャー」
「遂におまえ達は、最後の試練を乗り越えた」
「さあ変化して、大魔王を生け捕りにするのだ」
とんだ茶番劇から強制解除されていたスーパー変化が承認され、ここでもやはり、台詞が無いニンジャマン。青二才の弟子ポジションなので師匠と同じ立場で喋るとそれはそれで不自然なのですが、それにしてもあんまりな扱い。
「大魔王……大人しく俺達の心の中にある封印の扉の中に入るがいい。これで最後だ!」
サスケは大魔王に向けて力強く啖呵を切り、「封印の扉」とは何かを理解したのは良いのですが、ええと、あの、「怒りや憎しみを、心の奥底へしまい込む」心構えとかは……?
ま、まあ試練を乗り越えた認定の時点で条件を満たしたという事なのでしょうが……脱80年代の模索の中で、前作のテイストも少し感じさせながら、《スーパー戦隊》の枠組みにおいて力で倒すだけでは解決にならない存在をどう克服するのか? を描こうとした試みそのものは面白さもあるのですが、なにぶん唐突・なにぶん神様の言う通り、な展開に加えて、心の中のネガティブな部分と向き合った上で、「どうすれば怒りや憎しみを閉じ込める事が出来るのか」については一切語られない、というか心の一部を殺して存在を消せみたいな具合なので、肝心要な部分が実質的な虚無。
節目のエピソードでそこまでの積み重ねをひとまとめしようとしたら、逆にそこまでの物語の問題点が浮かび上がってしまう事例はしばしばありますが、節目も節目の終着点においてそこまで存在していなかった要素をゴールに設定したら、存在しなかった問題点が大量に発生して次々と誘爆を引き起こした末にブラックホールを生み出し、全てを無に飲み込んでいったみたいな、カクしきれないカタストロフ。
「スーパー変化!」
「「「「「ドロンチェンジャー!!」」」」
「人に隠れて悪を斬る!」
「「「「「忍者戦隊・カクレンジャー見参!」」」」」
最初の啖呵こそサスケの担当でしたが、劇中ラストバトルの揃い踏みにおいて鶴姫センターから「人に隠れて悪を斬る!」担当は、割と思い切った印象。
主題歌が流れ出すと、使い勝手の良さもあってか最後まで生き残っていたくノ一組を飛び越えたカクレンジャーは大魔王に素手で掴みかかり、背後からカクレンジャーを襲おうとしたくノ一組は三神将ビームを浴びると行動不能状態からネコに戻され、こんな雑に片付けられるのなら、決戦・くノ一組エピソードでも作って退場させてあげられなかったものか……。
大魔王は最後のあがきで巨大化し、その前にすくっと並ぶ三神将……と、端っこに立っているニンジャマン。
「封印の扉に入れ!」
三神将に囲まれて(ニンジャマンの攻撃シーンはさすがにありました!)弱った大魔王は小型化すると、再びカクレン5人に組み付かれ……これ自体が、“怒りや憎しみを心の奥底へしまい込む心の中の戦い”を具象化した比喩表現みたいなものである筈なのですが、上述したように「どうすれば怒りや憎しみを閉じ込める事が出来るのか」について物語としては何も示されていない(敢えて言えば、しようと思えば出来る、みたいな扱い)ので、精神のせめぎ合いを示す比喩として上手く成立せず、結局、数と腕力でお引き取り願うみたいな事に。
「覚えていろ。人間が居る限り、私たちは必ず甦る。かぁならずーーー!」
扉の奥に押し込まれながら、しぶとくノック連打する大魔王様だが、5つのドロンチェンジャーによって扉が厳重に糊付けされると果たされた封印と共に魔界へ消え、ここにカクレンジャーは妖怪軍団との戦いに終止符を打つのであった。
「お前たちの仕事は終わった。私たちとも、お別れだ」
「カクレンジャー!」
「ニンジャマン……」
一応拾われる、ニンジャマンとジライヤの友情。
「これからも、この地上が平和であり続けるかどうかは、人の心一つで決まる事を、忘れるな」
「永遠に、心の封印の扉を開けず、憎しみや、怒りを、表に出さない事だ」
この世の善も悪も、喜びも悲しみも、幸福も不幸も、つまるところ人間が生み出すものであるのだから、個人個人が善くあろうとするべし、というのは非常に普遍的なテーゼですが、『カクレン』的着地点として、その為に推奨されるのが「憎しみや怒りを永遠に表に出さない」事なのはだいぶブッ飛んでおり、これ三神将の目指すところは撃てるものなら家畜化光線(『電撃戦隊チェンジマン』)を撃ちたいであって、最終回にして、封印の扉が閉じた代わりに、なんだかいけない扉が開いてしまった感。
「「「さらばだ――さらば」」」
いわゆる「家路より」(ドヴォルザーク交響曲第9番《新世界より》第2楽章……編曲も含めてこの楽章が有名ですが、個人的には第4楽章が滅茶苦茶好き)をBGMに、三神将と完全におまけだったニンジャマンの姿はかき消え、カクレンジャーは今、青春を取り戻した!
鶴姫は、忍者装束に着替えた父と再会を果たし、下手すると大魔王と共に魔界に消えていたブンとネコ丸は、幸い無事でした。
父に背中を押された鶴姫を含め、サスケ達5人はネコ丸に乗り込むと仕事から解き放たれて「私」を取り戻す為のモラトリアムな旅へと繰り出し……まあ、最終回だし、誰か一人ぐらい、三太夫の事を思い出してくれても良かったんじゃないかな……。
(妖怪さん達よ……長い間手を焼かしてくれたな。もう二度と表へ出てくるんじゃねぇぞ)
扉の向こうでは妖怪たちが息づき続け、人の心のネガ面から生じるもの、とされた妖怪の不滅性もまた描かれながら、主題歌に合わせて名場面集とスタッフロールが流れ、5人を乗せて走るネコ丸と、仰ぎ見える富士山の画で、おわり。
・メンバーの二人が、封印されていた妖怪たちのパワーの源を解放してしまう導入
・鶴姫を例外に(ジライヤは基本設定が不安定……)、強い使命感を持たず職業要素も持たないモラトリアムな若者たちが主人公
と、前作を継承する形のアンチヒロイズム路線で始まった今作、倒せないラスボス、はそれにふさわしいものではあったのですが、最終回に突如として投入された新しいルールと新しいテーゼに対して、それとどう向き合い乗り越えるのかについて全く根拠を描かないまま力尽くで解決してしまい、最終回だけで1クール分ぐらいの大惨事が発生する未曾有の事態を引き起こしてしまいました。
せめて、ここまで50話ほどの要所要所で人の持つ負の感情と妖怪の繋がり、それらに意識的に立ち向かうカクレンジャーの姿が描かれていれば、今回はこれで解決、でもまだ受け止められたかもしれませんが、『カクレン』別にそういう物語だったわけでもなく。
作風が好みと合わなかったのはともかくとして、物語の辿り着いた理想のゴールが
「怒りや憎しみを心の奥底に封印して永遠に表に出さない姿勢」
であり、
「地上の平和の為には人間性の一部を欠如させる事をいとわない」
だったのは、驚天動地のぶっ飛びぶり。
一応まあ、三神将はそう言っているけど、たぶん無理、が示唆されてはいるのですが、この「人間賛歌」からの真逆ぶりは、「個人の義侠心」よりも「公の正義の精神」の方が明らかに格が上と置かれる『カクレン』世界(三神将ルール)に、ふさわしいといえばふさわしいのかもしれませんが……個人的には、ここまで50話ほどの中にあった諸問題が、全て生やさしく見えるレベルで大変飲み込みにくいラスト2話でありました。
・メタ要素の積極的投入
・《不思議コメディ》視聴層を意識したと思われる変態怪人路線の強化
・ヒーロー達がそのまま巨大化する一心同体の巨大ロボ
などといった“《スーパー戦隊》の新風”という点では色々仕掛けている今作、その辺りは別項でまとめられればと思いますが、いずれもあまり上手く転がらないまま、路線修正を経て中盤に自己破産からのヒーロー再生を試みるも、諸々の要素を“なんとなく”で済ましてきたツケがたたって、『カクレンジャー』とは何か、を最後まで構築しきれなかった印象。
2作前の『ジュウレンジャー』が、好みの路線とはいえないながらも、物語の芯になる要素がしっかり貫き通されており、勘所の掴める作品だったので、『カクレンジャー』でもそういうものが見つかるかも、という視聴だったのですが、個人的には最後まで、ピントが合わせられないきりとなりました。
以上、『忍者戦隊カクレンジャー』感想、ひとまず終了。長々とお付き合いありがとうございました。
簡易的な構成分析と合わせまして、落ち穂拾いと全体の軽いまとめを書きたい予定です。