『忍者戦隊カクレンジャー』感想・第51-52話
◆第51話「英・雄(ヒーロー)・失・格」◆ (監督:渡辺勝也 脚本:杉村升)
「ゆけ白面郎! 人間どもに怒りと憎しみを与えよ!」
憎しみで妖力を増強したスーパーヤマンバを手駒に加えた大魔王様が、最終作戦としてカーボン白面郎を起動していた一方、子供たちと遊ぶ鶴姫の姿を、暖かく見守る男衆。
「鶴姫、随分楽しそうじゃない」
「……その逆さ。鶴姫はな、親父さんを思い出して辛いと、最近じゃああしてはしゃぎ回るんだ」
……ここまで来るともはや他にキャラが居ませんし、鶴姫との関係性についてはスペシャルな要素が加わるのでサスケの担当で構わないのですが、印象としてはまたもサスケが一人で洞察力を発揮して他の男メンバーが案山子になってしまい、とにかくなんでもかんでもサスケに回してしまったのは、つくづく失敗であったと思います。
逆に作戦参謀ポジションからサスケを外しておいた方が、頭脳派というわけではないが、仲間の感情の機微には鋭いサスケとして光ったのではと思いますし……勿論、それはそれで積み重ねが必要ですが、とにかくそういった個別の積み重ねを放棄して、みんなサスケに任せてしまったのは、今作のキャラ描写における残念だったところ。
特に比較の意図は無い完全な余談ですが、東映ヒーロー作品の条件下において「頭の良さ」を“書き分けられる”人というと、近年ではやはり、香村純子さんの腕が光ります。
鶴姫が、遊んでいた子供たちのやや複雑な家庭の事情に巻き込まれていた頃、地上に出現し、目から怪光線で街を破壊の坩堝に叩き込んでいくカーボン白面郎……役者さんもまさか、顔面灰色でブリキのロボットのような動きをしながら、破壊光線を放って回る役になるとは思いもしなかったのでは(笑)
そこにスーパーヤマンバ(声を担当する北浜晴子さんといえば、大魔王役の柴田秀勝さんとは、あしゅら男爵繋がり)と花のくノ一組が現れると、破壊の限りを尽くすカーボン白面郎はそこの鶴姫の父親であり、憎むなら鶴姫を憎めと群衆を煽り立て、ヤマンバ(明らかに妖怪)とくノ一組(明らかに胡散臭い)の言葉を素直に信じて、手に手に武器を取る一般市民の皆さん、血の気が多すぎでは。
天空ドクロ城では大魔王様がそんな人間たちの怒りや憎しみのエネルギーを吸収する一方、一時逃走した鶴姫に近づいたヤマンバは大魔王の呪力に操られた白面郎を止める方法を伝え、これ以上の破壊活動を阻止し、人々を救う為に実父殺しを為すか否かに苦しむ鶴姫の葛藤がエピソードの焦点になるのですが、が、そのお膳立てを整えて丁寧に説明してくれたのが完全に敵サイドなので、
「というか、なんで私の言葉を鵜呑みにしちゃうかな」 (by戦極凌馬)
になっており、一体全体どうしてその組み立てで、葛藤のドラマが盛り上がると思ったのか大変疑問。
鶴姫を探すサスケらの前には三神将がぽわーんと出現すると、
「親が子を産み、愛し、育て、やがてその子も親になり、同じように永遠にそれを繰り返している。それが人間に与えられた、最高の幸せだ」
と語り出し、「与えられた、最高の幸せ」とか言ってしまうのが、とっても三神将。
神視点はともかく、これ自体は普遍性を持ったテーマではありますが、前々作『恐竜戦隊ジュウレンジャー』第37話「恐竜が生まれる」(監督:小笠原猛 脚本:杉村升)における
「全ての命は滅びる。だが、新しい命となって、必ず甦り、永遠に繋がっていく。それが、生けとし生けるものの、最高の喜びなのだ。幸せなのだ。それを絶対に絶やしてはならぬ」
ほぼそのままであり、『ジュウレンジャー』の時はそれを追加戦士ブライの運命と繋げて物語の中に落とし込んでいたのと比べると、『カクレンジャー』として特段の仕掛けも仕込みも無いままに前々作で用いたテーマを最終盤に持ち込んできたのは、露骨な異物感。
……繰り返し書いてきましたが、とにかく今作は、杉村先生のガス欠というか、いっぱいいっぱい感による脚本の質の低下が目立ちます。
三神将は、大魔王が白面郎と鶴姫を殺し合わせ、親子の絆を破壊する事でカクレンジャーの崩壊を目論んでいる事を伝えると、「倒すべきは大魔王なのだ」と告げて姿を消し、あなたがた先日、大事の前の小事でニンジャマンを殴り殺そうとしてませんでしたっけ……。
鶴姫の行方を捜す男衆はネコ丸の中で置き手紙を見つけ、洞穴で眠るカーボン白面郎を前に苦悩する鶴姫と、必死に鶴姫を捜し回るサスケ達の姿を劇的に描こうとしてはいるのですが、上述した「なんで私の言葉を鵜呑みにしちゃうかな」案件により葛藤は盛り上がりようがないのに加え、「正義の為に情を切り捨てたらカクレンジャーは崩壊する」も、これまでの神の所業とは正反対の気がする八方破れ。
「出来ない! あたしには出来ない!! お父様ー!!」
大魔王が人間から吸い上げる怒りと憎しみのエネルギーによりブースト中のヤマンバとくノ一組にサスケ達が苦戦する中、洞穴の中の鶴姫が、一度は取り落とした刃を再び握りしめたところで、つづく。
◆第52話「大団円!!父と娘(こ)」◆ (監督:坂本太郎 脚本:杉村升)
「馬っ鹿やろぉ!」
あ、殴った。
ブンと忍犬の助けでヤマンバ達の妨害をくぐり抜けたサスケは力尽くで鶴姫を止め、これが渡辺勝也×荒川稔久だったら、後ろから抱きしめムーヴだったかもしれないのに……!(笑)
外では巨大ヤマンバが出現して洞窟が激しく揺れると、カーボン白面郎が目を覚まして剣を握り、顔、怖い。
逃げる鶴姫が追い詰められた時、太郎と次郎が命がけで人間の姿に戻ると白面郎に組み付き、3人は揃って崖から転落。カクレンジャーはとにかく巨大ヤマンバに立ち向かい、ニンジャマンも加えて巨大ロボがが勢揃いするが、巨大ヤマンバは憎悪のエネルギーを注入される事で、何度でも立ち上がる不死身の力を見せる。
「人間に憎しみと怒りと絶望がある限り、私は不死身だ。あはははははは……!」
「その通りだ。もっと暴れろ我が妹ヤマンバよ。人間は汚い。いつも自分の事しか考えず、理由もなく人を傷つけ、命さえも平気で奪い取る。それらがすべて妖怪のパワーになり、人間が居る限り、我々妖怪が滅びる事が無いのだ。フハハハハハハハハハ!」
勝利を確信して呵々大笑する大魔王の台詞に合わせて、電車の席を譲らない若者・暴走族による凄く軽い東映ノリの暴力行為・川を流される捨てられた子犬、といった映像が入るのですが、前回、街の大破壊と市民の武装蜂起を描いた直後の回で、ごく普通に営まれている人間社会の姿に巻き戻ってしまうのが、最終回手前としては緊迫感台無し(イメージ映像、という解釈も可能ではありますが)。
恐らく、忍者と妖怪の戦いは、あくまでも平常の人の世の影で行われているもの、という意図はあるのでしょうが、前回、最終決戦だから、と派手な爆発を引き起こした流れとは全く組み合わない事に。
三大ロボが地面に倒れ伏し全滅寸前、那須高原で注入された昆虫魂の影響により、野山に咲く花の美しさを目に留めるサスケ。
「こんな荒れ果てたところでも、たくましく生き延びる力を持っている。俺達だって、負ける筈がねぇ!!」
う、うん…………?
「正しい事をしようとする勇気」
「命を、大切にする気持ち」
「そして、愛情と……」
「未来に対する希望」
今度はカクレンジャーの台詞に合わせて、老婆に席を譲らせる人・捨て犬を助ける少女……の姿(三神将による上書き幻術の可能性もあり)が描かれて大魔王の唱える人間の汚さが否定されるのですが、暴走族による凄く軽い東映ノリの暴力行為は映像だけで否定しにくかったのかスルーされ、なら何故あんな映像にしたのか……と、ラスト2話を任された坂本監督の演出も、どうもちぐはぐ。
「人は、どんなに辛い事があっても、諦めたりはしない」
「その人たちの為に、立て! カクレンジャー!」
「人々に、愛と、希望と、勇気の光を与えるのだ!」
そして、別に前回のゲスト少年が活用されるわけでもない人間全肯定から、ものの見事に連呼されるマジックワード。
「その通りだ。俺達はそういう人に支えられ、今まで戦ってきた筈だ!」
人間の持つ二面性と妖怪との関係など、『カクレン』独自に掘り下げられそうだった要素はポイ捨てされると、カクレンジャーと無関係なイメージ映像は入っても過去のゲストとの絡みが回想の形で入るわけでもなく、いったい何が「その通り」なのか、1年間の物語の集約地点において“そういう人”達さえ、神のクラウドからのアップデートプログラム頼りになってしまったのは、つくづく残念。
ちゃんと探して編集すれば、もう少し説得力のある映像も作れたのではと思うのですが……なお、三神将でさえ台詞を分配されたのに、ニンジャマンは一言も喋らず、ここまで来ると杉村さんはニンジャマンが好きではなかったの? とさえ邪推してしまいます。
愛と勇気と希望を胸に三大ロボが立ち上がると暗雲が晴れ、妖怪フィールドが消滅。青二才ノルマも果たすと連続必殺技が放たれて巨大ヤマンバは大爆発し、鶴姫らは、崖下に転がっていた白面郎たちを発見する。
酷い設定だった太郎と次郎は、最後の力で白面郎にかけられた大魔王の呪いを解くと光になって昇天し、正気を取り戻した白面郎は娘との抱擁を果たすと立ち上がる。
「サスケ……おまえ最近、うちの娘の肩に気軽に手ぇ回しまくってるけど、どういうつもりなの? 場合によっては、大魔王の前に今この場で三枚に斬る」
……は後で屋敷の地下室に招待して問いただすとして、
「サスケ……ジライヤ……サイゾウ……セイカイ……みんな、本当にありがとう。私の為に、君たちが今までどれだけ苦しんできたか……すまなかった。この通りだ!」
白面郎はまさかの謝罪で好感度を上げ、やはり、サスケとサイゾウにゲート開かせたのは、この人の差し金か(笑)
「なに言ってんのよ。あなたのせいじゃない。何もかも、大魔王が悪いんだ!」
一同が改めて大魔王に怒りを燃やすと、その頭上に姿を現す天空ドクロ城。
「こうなったら私が相手だ。最後の決着をつけてやろう」
「黙れよ大魔王……おまえにはもうパワーは無い。愛と希望と勇気で、あの憎しみの雲を吹き飛ばしたんだ!」
よく言えば「ストレートでわかりやすいメッセージ性」ですが、聞き心地が良いゆえに中身が空虚になりやすい危うさを持ったマジックワードが積み重ね不足のまま無残に繰り返され、すっかり愛と希望と勇気の戦士となるカクレンジャー。
パブリックイメージで語られがちな「80年代後半のマンネリ化した《スーパー戦隊》像」(※実際には、そうでもない)って、大体こういうものなのかもしれない、という気付き。
「愛だと? 希望だと勇気だと? そんなもの私の前では無力に等しい! はははははは、ばぁかめ。おまえ達にはまだ私の本当の姿がわかってないのだ」
第37話(vsスーパー無敵将軍)・第44話(vsサスケ)・第44話(vsスーパー無敵将軍&隠大将軍)と、過去3度の完敗の実績を誇る大魔王様、是非本当の姿を見せて欲しい……からの、地上へのドクロ城ダイレクトアタックの特撮は格好良く、しかしこれも、だいたい暴魔百族をなぞっているような……で、つづく。
前回の次回予告が、白面郎解放までの流れを台詞も合わせてほとんど見せていたので、そこからひねりが入るのかと思えば別にそんな事はなくてビックリしましたが、次回――最終回。