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揮えゼーバー 自由を守れ

イナズマンF』感想・簡易総括

 ひとまず、ストーリーに関する話をさておいて、『F』のシンプルな問題点を一つ挙げると、
 ヒーローアクションとして前作より面白くなくなった
 が、かなり印象をマイナスにした部分。
 前作は前作で、ヒーローを出鱈目に強く描きすぎた為、差別化や調整で悩ましい部分もあったのでしょうが……
 1,大がかりな超能力という最大の個性が消滅
 2,代替え品としてのゼーバーのテンポと見栄えの悪さ
 3,単純な肉弾戦で苦戦を繰り返す露骨な弱体化
 と、ヒーローとしての個性を実質的に失い格闘主体になるも、見応えも工夫も今ひとつなのは大きな短所となりました。
 特に中盤以降は真っ正面からの殴り合いでも苦戦傾向が続くのですが、デスパー怪人が強いというよりも、(前作との比較が生じて)イナズマンが弱くなっているようにしか見えない為に、しばしば盛り上がりを欠く事に。
 また、サナギマン→イナズマンの二段階変身をヒーローの個性としていた今作、そこを重視するならば二段階変身が盛り上がるような段取りを組まなければならないのに、それを出来ず、サナギマンの存在はどんどん形骸化していくが、設定上、いきなりイナズマンでのスイッチ切り替えは出来ない問題が、完全に足を引っ張ってしまいました。
 これらの問題を解決しつつ、イナズマンの個性も残す第三の道が、「雷神号」(に乗って出てくる場合はいきなりイナズマンでも許されるルール)であり、商業展開の関係もあってか、特に今作序盤は前作以上に雷神号を押し出しての特撮ドッグファイトが展開したのですが、予算の関係か、商業的に出さなくて良くなったからなのか、雷神号プッシュが落ち着くと、では「(サナギマン→)イナズマンのアクションをどう盛り上げるのか」の方法論が見つからなかった印象。
 一応、戦闘員相手には槍を奪っての時代劇に寄せた殺陣、怪人相手には格闘戦、などの色分けの工夫は見えましたが、武器→肉弾→ゼーバー、の流れは、前作序盤における大がかりな超能力合戦、の印象と魅力を上回るに至りませんでした(これは私が、週2ペースで見ている為もあるでしょうが)。
 感想本文にも書きましたが、せめてマフラーぐらいは個性として使い続けても良かったと思うのですが(映像的にも見栄えしますし)ほとんど利用しなくなり、その癖、ガイゼル最終決戦では急に使ってみせたりも、ちぐはぐになった感。
 まあ前作も、中盤以降はどんどん尻つぼみ気味になったり、サナギマンの設定があやふやになったり、決してヒーローアクションとして面白かったわけではないのですが、その右肩下がりの傾向をそのまま引き継いで、『イナズマンF』としてのアクションの面白さを打ち出せも組み立てもできなかったのは、アクションエンタメとしては、大失点となりました。

 ストーリー面での大きな問題になったのは、『イナズマン』から『イナズマンF』の看板掛け替えと敵組織変更のタイミングにおいて、渡五郎の行動原理の再設定を怠った事。
 これはアクション面における超能力関係の整理を怠った事とも繋がるのですが、“強大な超能力を操るミュータントヒーロー”として、“悪のミュータント組織”と戦っていたイナズマンが、“ミュータントとか超能力とか関係ない後継組織”と戦うにおいては、イナズマン自身にも、情念や因縁や背景事情の明確な再設定、仕切り直しが必要であったと思います。
 それをせずに、ただヒーローである事だけを前作からスライドした結果、確かに見て見ぬフリはしないだろうけど“漠然とした自由と正義の為に戦う存在”イナズマンとなってしまい、迷走とか暴走以前に、イナズマンF』には道路が無い状況を生んでしまいました。
 その癖、そんな“理想的な公のヒーローの体現者”という、もはや存在自体がテーゼ化してしまったイナズマン/渡五郎に対して、中盤以降は2話に一回ぐらいのペースで「ヒーロー性の否定」を突きつけてくるので、もはや「機能を否定される為のヒーロー」になってしまったのは、特に渡五郎にとって、大変不幸な事であったと思います。
 立ち上がり、「悪の組織は何故、ヒーローの身内(関係者)を徹底的に標的としないのか?」問題について、「それを避ける為にヒーロー自らが周囲か距離を置く」事で一つの解を与え、残忍かつ強大なデスパー軍団の性質を強調しつつ作品の雰囲気を切り替えた発想は悪くなかったと思うのですが、いざ主人公を「社会」から切り離してみると、急速に「ヒーローの依り代」分しか残らなくなってしまい、“渡五郎ならでは”を感じる言行や反応が消えて無くなってしまったのは、つくづく残念。
 ……まあこの、“公”に飲み込まれて“無”になっていくヒーロー、に関しては、ヒーロー物全般(或いは社会全体)に対するメタな皮肉として、多少、故意にやっているのではないか、と思われる節もありますが。
 渡五郎に残った個性を挙げると、生身での戦闘力が心ともなく、割とデスパーに痛めつけられては囚われるマッチポンプなヒロイン力ですが、渡五郎の主体がヒーローの依り代であると考えると、その性質が“ヒーロー召喚の触媒”となるのは、これもまた当然の帰結であったでしょうか。
 その一方で、ゲストヒロインがアクティブにエピソードを動かす中軸となるエピソードが幾つか見られますが、そうやって中軸に立たせたゲストが投げ込んだテーゼは、渡五郎という無私の虚空に吸い込まれてどこにも反響しない上、エピソードの最後で殺してしまえばそれ以上考えなくてもいい、という形で処理されるのが目についたのも、今作の残念だったところ。
 なおこの、「ゲストヒロインを中心にエピソードが展開するが、なんやかんやあって最後にゲストヒロインは死ぬ」という『イナズマンF』を象徴するパターンのエピソードは、
 〔7-11-12-17-18-20-22-23〕
 の計8話で、全体の3分の1と考えると、多いとも少ないとも言いにくい数字。
 ちなみに「ゲストヒロインが死にそうで死なずに済んだ」のは、
 〔6-10-16〕
 の計3話。
 ……そういえば、前作は「博士」の肩書きに厳しい作品でしたが、今作では、「○○博士の開発した超兵器を巡る攻防」みたエピソードがほぼ無い(ゼロではない)のは、一つ特徴といえそう。
 物語全体に道筋をつけるために、渡五郎に欠けている個人的な目標や情念の部分が、相棒にして唯一の社会的繋がりである荒井でフォローされればまだ印象は変わったかもですが、荒井は荒井で、サイボーグにされたかと思えば、記憶が曖昧になり、家族を取り戻そうとしている点は大して掘り下げられず、割と後から設定が盛られていってはドロドロに溶けていくタイプのキャラクターとなってしまったのも、物足りない点でありました。

 1974年――変身ヒーローブームが爆発から下降線に入り、世を見回せば70年安保闘争学生運動が過ぎ去った時代、そういった世相や同時代の作品と並べて見た時と、後年に見るのとでは、恐らくだいぶ印象の変わる作品なのだろうとは思いますが(当時の潮流としては、アメリカン・ニュー・シネマ的なものの影響も感じますし)、ヒーローフィクション・娯楽作品としては、“楽しい”“格好いい”の大幅な不足を感じ、作り手が自意識を振り回して「問題作」を送り出す事に酔っているようにさえ見えて、肌に合わずじまいの作品となってしまいました。