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『機界戦隊ゼンカイジャー』感想・第49話

◆最終カイ!「俺の世界、みんなのセカイ」◆ (監督:中澤祥次郎 脚本:香村純子)
 「あれを使えば、世界を完全に消さずに、記念として残せる。だから僕は、トジテンドに手を貸す事にしたんだ」
 悪くはない、悪くはない最終回……ではあったのですが、前回、底近くまで落ちたテンションを吹っ飛ばしてくれるには至らず。
 特に今回のvs神における決着の付け方が付け方だったけに、表向きだけクライマックスバトルらしく体裁を整えてはみたが、中身は空っぽだったボッコワウス戦の異物感がいや増してしてまい、これならボッコワウスも徹底して頓知バトルで倒した方が良かった気がして、ボッコワウス及びトジテンドの最終処理に関しては、明確に失敗した印象。
 これまでの調理過程(特に中盤以降)を無視して、いきなりトンカツ(歴代《スーパー戦隊》の魂の継承)を出してきたのですが、そもそも豚肉を仕入れていないので衣の中身が9割方虚無になってしまった上に、そのトンカツの紛い物が激しい異臭を放って物語の流れもズタズタにしてしまいました。
 「君たちの世界と、キカイトピア。面白そうな方をどちらか一つ残そうと思って、しばらく迷った結果……君たちの世界が選ばれたんだよ?」
 神の告白により、ゼンカイジャーvsトジテンドの戦いとはすなわち、(当人たちの思惑はともかく)神に対する面白アピール合戦であったとして神の行動に一定の筋が通ったのですが、ならば何故、vsボッコワウス戦は面白アピールのクライマックスにしなかったのかな、と。
 神の中では既にどちらを選ぶかの結論は出ているわけですが、だからこそ、神の真意が明らかになった時に受け手に成る程と思わせる仕掛けは、その直前に強調されてこそ効果を発揮するし、話の流れも自然になったのではと思います。
 そこに何故か、「歴代《スーパー戦隊》の魂の継承」という要素を挟み込んできたわけですが、ただでさえ今作としては中身も入っていなければ揚げ時間も足りていない上に、最終的な“神の選択”への影響が強く紐付けられていないので(ゼンカイジャーの“面白さ”の一部ではあるのですが、だから含んでいると見るのは、拡大して取り過ぎるかなと)、クライマックスバトルで大きく扱った要素と、真のクライマックスバトルとの間が繋がっていない、という巨大な断絶を生んでしまう事になりました。
 どうしてもトンカツを挟みたいなら、最終回で神にトンカツの味について触れさせるべきだったと思うのですが、最終回で神がトンカツに触れない為に、何故トンカツを挟んだのかがどうしようもなく異物となってしまい、とってつけた言い訳にも見える要素が、細部と全体の調和を欠いて作品の美しさを著しく削いでしまったのは、重ねて残念。
 「俺……見たんだ。
 それぞれの世界に、それぞれ生きてる人が居る。
 いろんな世界と繋がったから、新しい仲間と会えた。
 元居た世界で、苦しかったけど、逃げる場所が出来た。
 おまえが気まぐれに創った世界でも、もうそこで生きてる人が居るんだよ!」
 最終回で描かれた事そのものは悪くなかったのですが、前回との有機的な連動が見えない為に飛び石のようにポンと置かれた形になってしまい、前回と今回、分裂した二つの最終回が盤面の両端に分かれて互いにそっぽを向いているような印象。
 「でも、他の世界があるから、君の両親はさらわれた。他の世界に侵略までされたんだよ?」
 「それは世界が悪いんじゃない。そういう人も居るってだけだ! 返せよ、みんなの世界を返せ!」
 神へ向けて叩きつけられる介人の想いは説得力を持ち、神は神なりの観念で動いている存在となりましたが(『フェッセンデンの宇宙』(E・ハミルトン)をちょっと思い出したのですが、古典SF系)……これならトジテンドは完全にポイ捨てした上でもう3話ぐらい早く神の真意を見せて、クライマックス丸ごと使って神に翻意させる為にゼンカイジャーが戦う、でも良かったような感はあり。
 ……それをやると《平成ライダー》に作劇が寄るのを避けたのかもですが、こうなってみると、この神自体が《平成ライダー》第4クールに出てきそうな雰囲気があって、終盤における白倉Pと武部Pの意識に《平成ライダー》文脈が入っていたのかなとは。
 一つ印象深いのは、ステイシーに関して、繋がり広がった世界を「逃げ場」と明言した事で、一連のステイシー周りはかなり「現実へのフィードバックに寄せる」形になりましたが、うがった見方をすると、脚本がステイシーの落としどころに関して自分を納得させる為の一線がそこだったのかなと。
 また、介人の言う「世界」はそのまま「物語」と言い換えられるものであり、《スーパー戦隊》を含めた“物語の力”を神に叩きつける構図でもあるのですが、では今作が「物語賛歌」として評価できるかといえば、やはり道中の積み重ねが薄く、メタ要素の使い方がずっと中途半端なまま、ゴールまで来てしまった感。
 気まぐれな思いつき創世にコレクションやカタログ趣味、「神」には「視聴者」を始め様々な見立てが可能かとは思いますが、それもまたメタ要素の入れ方としては露悪的であまり趣味が良くないと思いますし。
 介人と神はトジルギアの在処をかけて殴り合いに突入し、真っ白な精神世界から次から次へと恒例のロケ地に背景が入れ替わっていくのは、面白い趣向でした。
 仲間達の力を引き出したゼンカイジャーは神をくすぐり、顔面にパンチを叩き込み、最後はジャンケン。
 以前ゾックスには断られたジャンケン勝負を神は受け入れ、介人の決まり手がパーだったのは、五本の指を広げる形が勝利にふさわしくて美しかった部分。
 「これからは、今まで作った世界、一つ一つを大切にするよ」
 「これから作る世界も、だろ? どんどん作って、全部大切にしてよ。その方が楽しい」
 「……簡単に言うなぁ」
 神は約束を守って、スカイツリー上空にトジルギア装置がステルス機能で隠されている事を伝え、介人は全力全開キャノンでそれを破壊。巨大装置と共に全てのトジルギアが砕け散ると閉じ込められていた全ての世界が解放され、地面に大の字に転がっていた介人は、ゲートを通って空から降ってきたジュランたち、そして界賊一家との再会を果たす――。
 それから3ヶ月、互いの存在を認識した並行世界間の交流が活発になり、アース-45改めゼンカイトピアでは、100個目の公式ゲートが開通。
 すっかり険の取れたステイシーはキカイトピアの復興にいそしみ、学校(広く学ぶ場)の設立と、おやつ券が拾われたのは良かったです……特に、おやつ券がっっっ!!(血の涙)
 「僕は王にはなれないが、君たちと一緒に、新しい世界を作って行く事は出来るって」
 ステイシーはキカイノイド達と共に青く広がる空を見上げ……カラフルには、双子の呪いが解けた界賊一家が姿を見せる。
 人間の体を取り戻した双子はフリント曰く「天才の私がぬかりなく」SDモードになってツーカイザーと一緒に戦える体に改造されており、天才、とは何か。
 「まさかこの土産、またどっかから奪ってきたんじゃ……」
 「…………ま、奪ったのは確かだが」
 「あたしら、弱いもんからとるのは、やめたんだよな」
 天才の所業に良識を発動したジュランに対し、界賊一座は「そっちの方が面白いから」“義賊”にジョブチェンジした事を明かすのですが、強いもんから奪ったものなら土産に受け取っていいわけでは全くないと思うのですが!!(笑)
 この辺りやはり、世界の法則を上書きしてくるワルド怪人に始まって、「別の世界のルールを持った相手」との衝突や協力を描きたかった意図は見え、ラスボスとなった神などはまさにその極致だったといえるのですが、劇中人物の倫理観のすり合わせに失敗して空中分解してしまい、綺麗に線を導けなかった印象。
 キカイトピアのラストシーンでクダックがキカイノイド市民と一緒に行動している事から、第1話から明確に“同族殺し”の意識があった事が裏打ちされたのですが、当初の危惧通り、《スーパー戦隊》では扱いにくいテーマだったのかもしれません。
 せめてゾックスが見た目から人間で無かったら(シグナルマンやゴセイナイトのようなタイプだったら)全体の印象がまた違ったかと思うのですが、ステイシーにしろゾックスにしろ、見た目ニンゲンだから積極的に対話するようにしか見えない姿勢が危うい種族差別問題を孕んでしまった事も響き、総じて今作、革新を謳った割には仕掛けを“貫ききれなかった”感。
 ヤツデと両親に暖かく送り出された介人は、ジュラン・ガオーン・マジーヌ・ブルーンと共に、「目指せ世界初! 全部の世界に行っちゃう戦隊」になるべく旅立ち――おわり。
 最初に書いたように、最終回の印象そのものは悪くないのですが、介人たちがずっと向き合わないままコラージュ素材みたいに使っていた過去戦隊に対して、ラスト1話前で急に同調させたのは個人的にはつくづく致命傷でしたし、最終回は最終回で、悪くはないがそれとは全く別の物語が描かれるので(過去戦隊と完全に切り離された『ゼンカイジャー』の物語、とも取れますが、それが面白さにはなっていない)、仕入れと仕込みの状況から判断して可能な着地点を決めるのではなく、無理が出ざるを得ない着地点(しかも唐突な両取り狙い)に仕入れと仕込みの状況を無視して飛び込んだら足をくじいた、といった感。
 それでもなんとか、序盤に用意しておいた材料を駆使して最終回は形にしましたが、最終的にこれを出してくるのなら他の調理過程があったのではないかというギャップと疑問は生じ、細部と全体の不調和が引っかかって、心に響き切らない作品となってしまいました。
 アベレージ的には間違いなく楽しんでいたのですが……自分がどの辺りから『ゼンカイジャー』と波長がズレてきてしまったのかについては、総括も兼ねて別項で考えてみようかな、と思います。