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鉄を熱い内に叩いていない

超獣戦隊ライブマン』感想・感想総括

 近い! 爆発近いよ!!
 ……えーとまあそんなわけで、毎度毎度毎度毎度の事なのですが、いい加減なんとかしとこう的な波がちょっと来た勢いで、配信が終わってから1年ぐらい経っている気がするのですが、とにもかくにも『ライブマン』の総括を軽くでもしておこうとテンションの赴くままにキーボードを叩き始め、ひとまず最終回終了後に軽くメモっておいた事項から、あまり気負わず筆の進むままに話を広げていこうかなという感じで、まあ毎度、そのぐらいの気楽な感じでとりあえず書いておいて後でブラッシュアップすれば良いのではと気付いたりするのですが、色々と後の祭りです。
 さて、ここ最近の文体とちょっと違うのは、ここ最近とは違うアプローチで書いているからだとご了解いただければと思いますが、個人的に『ライブマン』の大きな“特性”(“独自性”ではない)と感じる点が、三つ。

 ・過去から始まる戦隊
 ・父性との距離が遠い戦隊
 ・組織化されていない戦隊

 というもの。
 「過去から始まる」事に関しては、「バイオ粒子浴びて、ご先祖さんの頃からええ目見てきたんやから、その借り、 熨斗つけて返してもらおうかい」な『バイオマン』、「幼い頃にエイリアンハンターにさらわれた」『フラッシュマン』といった、過去からの因縁が現代のヒーロー活動に繋がっている作品は例があるのですが、『ライブマン』は「2年前に親友二人を殺された」と近い過去に強烈かつ直接的な因縁を構築する事で、従来作とは違ったドラマ性を生み出す事に成功しており、更にそれが、2年後の科学アカデミア崩壊によってブーストされる事に。
 そして、2年前の事件を契機に“独自に戦闘服を開発していた”勇介・丈・めぐみはライブマンを誕生させて、かつての友の所属する侵略者ボルトと立ち向かう中で、如何にも長官/博士ポジジョンであり、3人の恩師でもあった星博士の退場により「父性との距離が遠ざかる」事になり、ここに、ベース・サポートロボは博士の忘れ形見ながら、一つの巣立ちを終えた――科学アカデミアという場を卒業した――自立型の「組織化されていない」戦隊が誕生する事になります。
 公的組織に所属していない、という意味ならばダイナマンもそうですし、指導者ポジションの不在と独自行動についてはフラッシュマンも同様ですが、自分たちの手で戦闘服を生み出して戦う事を選んだのは恐らくシリーズ史上で今作が初であり(「備える」と「戦う」がセットになっている、といえます)、かくして、「過去」の個人的因縁を原動力とし、主導的存在となる「父性」を失い、「組織化」から離れたいわば野良戦隊となった事により、自分たちで“公の正義”を設定する事になった戦隊こそが、ライブマン最大のコアなのではないか、と、これを綺麗に言語化しようとしてもんどり打っていたらしいです、ハイ。
 で、当時のドラマ性の都合もあってか、第1話時点で「生けとし生きるものを守る戦士」宣言により、私の動機付け→公の大義にひとっ飛びに繋げられはするのですが、一方でその後、ややくどいほどに“ライブマンの戦う理由”の言語化と表明が繰り返されるのが今作前半のポイントといえ、天秤の片方に強烈な復讐心を置き、もう片方に全ての命への無償の愛を置く、超獣戦隊ライブマンの在り方が確立。
 第20-21話の剛退場編を持って一つの完成を迎えるそのテーゼは、言い方を変えれば、“私的な復讐の為にのみ力を振るう事を良しとしなかった者達の物語”であり、それを自分たちの判断で選んだのがライブマンとして、終盤までドラマ的に繋がっていくのですが、振り返ると物語の開幕当初にそれをハッキリ明示しているので、作品を貫く一本の芯になっているのが、『ライブマン』の強みであった、といえます。
 私の動機付けから公の大義への転換、ないし両者のせめぎ合いは、「家族捜しと打倒メス、二つの目的を持っていた」『フラッシュマン』、「レッドの恋愛を軸に置きつつ“私人としてのメンバー”を描く事に意識のあった」『マスクマン』などの試行錯誤を経ており、その「ヒーローにおける公私のバランス」を非常に大胆な形で調節した産物、といえますが、復讐を動機とするからこそ自分たちでそれに見合う重石を選んだライブマンの在り方は、00年代以降の作品を見慣れた目線からも今作が突き刺さる一因であったと思います。
 その一方で、ライブマンの敵となるケンプら三天才は、科学アカデミアを捨て、それぞれが独立独歩の天才のプライドを持ちながらも、“真の天才”と崇拝する大教授ビアスに心酔してその意のままに動き、「過去の切り捨て」「悪の父性に導かれる」「組織の歯車化」と、見事にライブマンを対を為す事で双方のテーマ性をより強烈な陰影として浮き上がらせており、この辺りはホント、80年代戦隊作劇が極まったところに生まれた凄みであるな、と。
 80年代戦隊は、『チェンジマン』で一つの頂点に達した後、続く『フラッシュマン』『マスクマン』ではかなり試行錯誤が見られ、特に「戦隊メンバーをどう描くのか」において、「過去」「私と公の関係性」という2点が意識的に織り込まれていき、それらは『ライブマン』で一つの実を結ぶのですが、あれこれ見ていくと、作品の完成度はともかく、元を辿れば『フラッシュマン』でやっているな……というアイデアがこの後も散見されて、『フラッシュマン』は一つ大きな転機だったのだな、と改めて(『チェンジマン』があったからこその転機、といえますが)。
 で、その『フラッシュマン』における構造的にハッキリした新機軸が〔2号ロボの登場〕であり、それが今作に至って〔シリーズ初のスーパー合体〕を生むわけですが、2号ロボの登場にメンバー増員を掛け合わせた作劇の素晴らしさは本文感想で書き連ねたのでここでは割愛するとして、『マスクマン』の2号ロボで持ち込むも特に掘り下げることなく終わった“心を持ったロボット”が、今作のサポートポジションであるコロンさん(さん付け必須)に引き継がれた部分はあったのかも、などとは思うところ。
 ライブクーガーによる前線投入を皮切りに、バイクで頭脳獣を轢く、掌底で戦闘員を叩き伏せる、ライブライオンを操縦する、身を挺してレッドに捨て身の覚悟を教える、ライブボクサーの動力になる……と数々の活躍を繰り広げた末にとうとう巨大ロボを単独で操縦してしまい八面六臂の活躍を見せたコロンさん、勇介専用ヒロインとしても存在感を発揮するなど、星博士の忘れ形見的存在としてメンバーと絆を育んでいき、“第六(四)の戦士”として丁寧な扱いを受けるのも、今作の大きな魅力の一つでありました。
 また、そんなコロンさんだけがライブマンにおいて“ゼロから彼らと思い出を作っていく存在”であり、ボルト側のガッシュが戦いだけを記録していたのと比べた時に、美しいものを未来に伝える語り部の役割でもあったのだろうな、と。
 さて、書く方としても、読んで下さる方の事を考えても、もっと熱量のある内に文章にしておけ自分! と改めて深く反省しつつ、気楽な叩き台としての簡易総括という主旨の元に色々すっ飛ばしますが、様々な設計要素の連動によって生み出された今作最大の長所は、前半時点でのライブマンとは如何なるヒーローなのかの確立と、それにともなう、なにをもって『ライブマン』になるのかの確立であり、つまるところ物語のコアとなる強靱なヒーローテーゼとなりますが、当然それに対応する悪のテーゼの強固さも必要になる点において、ボルトとはいかなる悪なのか、を魅力的に確立できたのも極めて大きいポイントでした。
 そして終盤に明かされる大教授ビアスの本質がまた素晴らしく、80年代中期の傑作『チェンジマン』、そして80年代戦隊の集大成といえる今作に共通するのは本当の敵は誰か?なのですが、それを鮮やかに“個人”の形に落とし込んだのは、本当にお見事でした(“世界”の形に広げた『チェンジマン』とは別の形になっているのがまたお見事)。
 で、キャラクターの魅力やアクションのレベル、物語の緻密さなどでいえば(尺の増加も含めて)近年の作品に分がある一方で、『チェンジマン』や『ライブマン』が今でも突き刺さり語り継がれるものになっている理由として、テーゼの徹底的な掘り下げと、普遍性のある寓話への落とし込み、の点に関しては、近作以上に巧く出来ている部分があるのだろうな、と。
 それは、求められるドラマ性の違いや、数年に渡る連続メインライターという環境、そして根本的な時代性の差による面もあるのでしょうが、当時のスタッフのセンスが生み出した、80年代戦隊が今も色あせずに持つ大きな魅力ではないか、と思うところです。