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俺たち炎の 電撃戦隊チェンジマン

電撃戦隊チェンジマン』感想・総括

 君は、この世界と戦えるか?

 強大な侵略者による征服行為の結果、“征服された者達”が、兵士として“征服する者達”に代わり、故郷を取り戻す事を求めて次の侵略者となり、より強い者が他者を虐げ傷付け奪う行為が拡大と再生産を繰り返す世界において、「悪」とは――侵略者に敗北した事にあるのか? 侵略者に膝を屈して手駒となった事にあるのか? 己の故郷の為ならば他者を踏みにじっても構わないという心にあるのか?
 或いは――それを求める世界の在り方そのものなのか?
 フィクションにおける悪人とはそもそも、現実に存在するどうにもならない不幸や悪意の隠喩という一面を持ち、ヒーローフィクションの主人公達はそれを打破する事で、日常をブレイクスルーし世界に活力を与えるものでありますが、今作では更に、劇中の巨悪である星王バズーを「個人としての悪」ではなく、「劇中世界を侵食する弱肉強食の論理そのものの象徴」と置く事で、隠喩を通して世界と戦うヒーロー達が概念的な悪そのものと向き合う事により、“世界との対決”という要素を強く押し出したのが、大きな特徴といえます。
 概念的な悪そのもの、という点においては例えば『仮面ライダー』シリーズにおけるショッカー総統など、様々な例があると思いますが、今作が優れていた(先行作品を踏まえて強度を高めた)のは、ではその「悪」とは何か? というディテールを一年間の物語を通して積み上げてきた事。
 それにより、悪そのもの、といっても曖昧模糊としたものではなく、チェンジマンが戦う「悪」とは何か、がハッキリと姿を見せる事で、最終的にゲーターやシーマなどが電撃戦隊に加わるに際して、ゴズマの手先として直接的な悪事を行ってきた事を「裁く」とか「許す」とか、悪の因果を個人に帰趨させるのではなく、チェンジマンが向き合い、戦うべき悪――真の敵――は、「そうさせる世界」であるという事に説得力を持たせ、一年間の物語に芯が貫き通されたのが、大変お見事でした。


 「まったく気味の悪い連中ね」
 「ああ、この宇宙には、俺たちの知らないエイリアンがまだまだ沢山潜んでるんだ」
 (第4話)
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 「そうはいかん! 今こうしている間にも、ボルタは宇宙中に放送してるんだぞ。大星団ゴズマの支配下に置かれた人々に、ゴズマの強さを見せつけようとしている。地球にも! 平和を求めて戦う人間が居る事を示さないでどうするんだ!」
 (第21話)
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 「一時的とはいえ、ギョダーイと気持ちが通じたのよ。他の宇宙の動物とも、気持ちが通じるかもね!」
 (第24話)
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 「ゲーターもゾーリーも、本当に哀れな立場なんだな」
 「許せないのは、そういう宇宙人を戦いに仕向ける、星王バズーと大星団ゴズマだ!」
 (第27話)
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 チェンジマンの、異星人に対する態度や感情の変遷に象徴されますが、ある面で『チェンジマン』とは、1年間の物語を通して、「戦うべき真の敵を見つける物語」であったとも言えるかもしれません。
 そしてそれを、軍人戦隊と「戦争」という背景――兵士と国家の乖離――、チェンジマンが戦っているのはあくまでギルーク率いる遠征軍であり、大星団ゴズマとその首魁たるバズーは遠く背後に居る、という悪役サイドの二重構造――遍在するが覆い隠された真の悪――という設定が支えているのがお見事。
 特に後者の設定は、遠征軍の抱える本質的な悲劇性を浮き彫りにすると共に、ギルークらの姿は“明日のチェンジマンかもしれない”という、善と悪の表裏一体性を示しているのが最終盤まで効いており、今作の背景に横たわる“被害者が加害者に変わる”という基本構造が使い尽くされているのが実によく出来ています。
 また、それらの説得力を高める為の、ゴズマ側のスケール感の描写というのが通して実に丁寧で、チェンジマンが戦っているのはあくまで遠征軍という辺境の一部隊ながら、その背後にある大星団ゴズマ――侵略された数多の惑星――の姿が端々に窺え、そのスケール感と合わせて星王バズーの格を決して落とさない事で、最終的に見出す「真の敵」としての存在感が守られ、絵空事を茶番にしない為の線の引き方と手の入れ方が、実に巧み。
 一方のチェンジマン側も、随所に「チェンジマンとは如何なるヒーローか」が盛り込まれており、“去って行く”が、いつだって“必ず来る”というエターナルなヒーロー性の描かれ方が格好良かったです。ストレートに子供ゲストと絡む機会が多いのは時代性も感じますが、今作においては特に、物語のベースがハードなだけに、バランスとして丁度良い物にもなったかなと。
 そんな子供ゲストがしばしば囮げふんげふん戦いに巻き込まれるのは、戦争だからシカタナイ(さやかママ回は本当に傑作でした)。
 立ち上がりは、遠くを見ながら信念を持ってオカルトを語る偉い人の勢いにどうなる事かと思いましたが、総じて非常に丁寧かつ手堅い作りで、設定・構造・描写のどれもが手抜かり無く良く出来ていて互いを補い合っているという点において、お手本のような一作であると思います。

 難点を挙げると一つ、後半に行くにつれチェンジマン側のキャラクターが薄くなってしまった事。
 前半~中盤の積み重ねにより個々のキャラクター性自体はしっかりしているのですが、物語の中心ががゴズマ側メインにシフトしていくにつれて飛竜を除くと台詞が激減し、チェンジマンのキャラクターが物語を動かす、事がほとんど無くなってしまったのは残念な部分でした。
 それにともない、飛竜と疾風の人格の統合というか交換というか調整が若干行われ、疾風の感傷的な激情家という性格が飛竜に吸収され、その飛竜と衝突する役回りとして疾風が割とドライな立ち位置(それでも、単独行動の飛竜の危機にはいの一番に飛び出そうとするのですが、内に秘めるタイプに変更されている……まあこれはホント、劇中で繰り返された女性関係のトラウマが原因かもしれませんが)に変わってしまったのは、惜しかったところ。
 もう一本ぐらいこの、後期〔飛竜×疾風〕メイン話があれば、また印象が違ったかもですが。
 とはいえ、アハメス様を筆頭にゴズマ側のキャラクターの魅力はそれを十分に補い、話数の余裕もあってか非常に丁寧に描かれていった遠征軍内部分裂から崩壊に至るクライマックスは、大変盛り上がりました。
 まさかブーバ、あそこまで格好良くなるとは本当に思わなかったよブーバ……。

 特に好きなキャラクターは、バズー、ギルーク、アハメス、シーマ、ブーバ……ともう露骨にゴズマ側に偏る(笑)のですが、物語の構造と密接に絡み合った悪の組織と構成員の完成度としては、歴代屈指だと思います。バズー様はホント、バズー様というキャラが好きなわけではないのですが、ラスボスの造形として、大傑作。
 そして感想本文でも繰り返し触れましたが、アハメス様はキャスティングが最高でした。
 ギルークは最後、ミニ・バズーとしてだけ散ってしまったのが残念でしたが、はったりの効いた身振りや表情が好きでした。
 シーマはキャラ的においしいのに加え、飯田ボイスという飛び道具のインパクトに、出渕デザインの見せ方、というのが実に良く出来ていて、アハメス様と並んで出渕デザイン女性敵幹部として、非常に完成度が高かったと思います。
 ブーバはホント、退場回が最高でした。
 ブルバドス・活人剣!
 ……あ、電撃戦隊サイドも、サブマシンガン伊吹とか、終わってみると一番ネタが豊富だった飛竜とか、眼福な疾風とか、どす黒いさやかとか、宙吊りから鉄の扉に体当たりして脱出を試みる麻衣とか、個々に好きです(笑) …………勇馬、勇馬は、おにぎり爆弾、かな……いや勇馬、最終回の回想シーンのせいで、終わってみると、ペガサス爆死のインパクトに全て塗り潰されてしまって……。

 ゲーター一家やギョダーイなど、気持ち悪い寄りのデザインのレギュラーキャラも、じわじわと愛嬌をつけていって感情移入させ、最終盤の展開に説得力を持たせたのはお見事でしたが、演出陣では特に、年間通して大車輪の活躍だった山田監督の絶好調ぶりが際立ちました。正直、山田監督ここまで面白かったのか! というレベルの出来が連発で、ここまで見てきた山田監督の演出作品では、最高傑作という評価。
 これはアクション監督の領分もあるでしょうが、中盤、ストーリー的にやや落ち着く時期に、アクション面の強化や新しい映像を入れてアクセントしてに飽きさせないように作る、というのも年間のバランス感覚としてお見事でした。
 獅子奮迅の演出本数もありますが、今作は山田監督あってのこの完成度であったと思います。
 そこに、戦隊デビューとなった長石多可男監督との科学反応もあったのかは想像の範疇になりますが、堀監督も含め、演出陣も上手く回ったなと。
 そして脚本で特筆すべきは、なんといっても藤井邦夫。
 序盤こそ、藤井先生らしい、色々と詰めすぎて戦隊の尺だともう一つまとまりきらないエピソードが気になりましたが、徐々に呼吸を掴めてきたのか、後半には秀逸回を連発。また、メインの曽田さんがどうしても、キャラ回や話を転がす回などを手広く担当しなければならない中で、初登板の第7話を皮切りに「地球を攻撃してくる獣士も広い意味ではゴズマの犠牲者である」というチェンジマンの根幹要素をテーマとして掘り下げていき、物語に芯を通すと共に、それがバズーの作る宇宙の否定へと昇華される第41話に到達したのは、サブライターとして実に素晴らしい仕事でした。


 「あなたは、イカルス星や、イカルス星人が恋しいかもしれない。でもそんなあなたが、様々な星を侵略し、自分と同じ哀しみを持った人々を、作り出しているのよ!」
 「強いものだけが生き残る……それが、それがバズー様の作った宇宙の掟だ!」
 「間違っているわ。……どんなに小さな星でも……どんなに弱い星でも……命の重さは変わらないわ。イカルス、あなたのお母さんだって、そう教えてくれた筈よ」
 また、得意の悲恋ものプロットから離れた第37話「消えたドラゴン!」で、スーパーアハメス編が一段落したところに傑作回を投げ込んできたのも、大変印象深いです(この回の山田演出がまた良かった)。
 今作の背景に横たわる悲劇性と相性が良かったのか、藤井脚本が噛み合った、というのはつくづく大きかったな、と。
 なお担当脚本数は、
 〔曽田博久:40本 藤井邦夫:12本 鷺山京子:3本〕
 で、この時期の曽田さんの生産力とアベレージは本当に凄まじい。

 特に好きなエピソード(厳選)は、
 第9話「輝け!必殺の魔球」・第12話「ママはマーメイド」・第19話「さやかに賭けろ!」・第37話「消えたドラゴン!」・第41話「消えた星の王子!」・第52話「ブーバ地球に死す」・第53話「炎のアハメス!」
 といった辺り。
 詳細な構造分析はまた別項で(こちらはまとめ作業の時にか……)やれればと思います。

 とにかく、設定・構造・描写、の3つが噛み合い、劇中に散りばめた要素がしっかり連動し、セオリーには忠実でアクション面の魅力も怠る事ないまま、キャラや世界観を手堅く一歩ずつ踏み固めていき、最終盤において、“そんな世界の在り方”そのものと戦う所へ飛翔してみせる、極めて完成度の高い作品でした。
 80年代中盤までの戦隊シリーズの積み重ねを踏まえた上で、その先へ物語を撥ねさせる事に成功しており、以降の作品に様々な影響が窺えるのも納得の名作。
 「その時になったら、必ず俺が教えに来よう!」