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「――俺たち5人は、確かにここに居る」

小林靖子と「境界性」


 虹は天界(他界)と俗界とを結ぶ橋と考えられていたのであり、虹が立てばその橋を渡って神や精霊が降りてくると信じられ、地上の虹の立つところは、天界と俗界の境にある出入り口で、神々の示現する場であった。
(「虹と市」/勝俣鎮夫)
 シリーズ全体として“顕著な事例”といえるかはわかりませんし、企画・設定については当然、メインライター以外にも多数の人間が関わって作っているものなので、小林靖子自身のアイデアがどこまで反映されているのかについては明確にできませんが、ひとまず1998~2014年の間の東映ヒーロー作品における(アニメは疎くてわからないので)「小林靖子メインライター作品における二つの世界」という共通項を抽出・検討してみたいと思います。
 なお、実写版『美少女戦士セーラームーン』は未見の為、資料の対象外としました。
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 ・1998年『星獣戦隊ギンガマン』 日常社会/ギンガの森
 ・2000年『未来戦隊タイムレンジャー』 竜也の時代(2000年)/ユウリ達の時代(3000年)
 ・2002年『仮面ライダー龍騎』 日常社会/ミラーワールド
 ・2007年『仮面ライダー電王』 過去/良太郎達の時代(現在)/イマジン達の来た時代(未来)
 ・2009年『侍戦隊シンケンジャー』 (此の世/三途の川)
 ・2010年『仮面ライダーオーズ
 ・2012年『特命戦隊ゴーバスターズ』 通常空間/亜空間
 ・2014年『烈車戦隊トッキュウジャー』 駅(とその周辺世界)/レッシャー内部
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 まず、そこに共通項を見るのが適切であるのか、という点については、8作品中7作品において「二つの世界」が描かれ、更にその内の6作品において「主人公サイドのキャラが二つの世界を移動している」(こちらがより重要)事から、一つの特性をそこに見出すのは、大きく外してはいない、と考えて良いかと思います。
 一つ一つ取り上げていきますが、初のメイン作品となる『ギンガマン』における「ギンガの森」は、明らかに勇太くんらの暮らす「街」の世界から見た時の「他界」であり、里人と山(森)人の出会い、の構図が背景に窺えます。
 ギンガマンはこの他界から現世にやってきた存在といえ、これにより「共同体の外部からやってきてまた去って行くヒーロー」という古典構造を孕むと共に、それが「街」の人間により「伝説」として再構築される事により、始原的な「物語」そのものが描かれる、という二重構造を持っている、と言ってもいいでしょう(この意識は、小林さんのものかもしれないし、高寺プロデューサーの視線であるかもしれません)。
 『タイムレンジャー』においては、初期メンバー5人中4人が、主人公的存在であるタツヤから見た場合に時間的な「他界」から来た存在であり、現世と他界の人間的交流が、物語の大きな縦軸となっています。また、劇中で触れられはしなかったと思いますが、ユウリ達から見た時にタツヤは「過去で死んでいる」存在であり、生/死という二つの世界もまた、タイムレンジャーの中で繋がっているといえます(ので、アヤセの持つテーマ性が必然性を持って浮かび上がってくる)。
 今作はかなり明確に、「時間」という「境界」と、それを超えて二つの世界に所属するユウリ達の両義性が意識されている、と思っていいのではないしょうか(これはあらゆるタイムトラベルものに該当するとはいえますが)。
 『龍騎』では、日常社会とミラーワールドという他界を行き来して戦うライダーの姿が描かれ、二つの世界に所属する仮面ライダー、という存在がバトルの構造を通して象徴化されている、といえます。
 『電王』は更に構造が掘り下げられ、二つ(以上)の世界を繋ぐデンライナーという装置が登場するのですが、イマジンと良太郎が直接接触できる・ピアノマンのような存在を乗客とする、事が示唆するように、現世のものと他界のもの、或いはどちらの領域にも属していないものが交わる事が可能な、デンライナーとは境界空間そのものであるといえます。
 現世と他界との境そのものがデンライナーである、言い方を変えれば、“デンライナーという境がそこに発生する”事で二つの世界が接続した状態になる、というのがデンライナーの機能であり、恐らく特異点とは、デンライナー的な性質が外部に延長・拡大した存在、なのでしょう。
 この点において電王とはまさに、境界空間そのもの、俗/聖・生/死・現世/他界、という二つの領域に所属する両義性そのものを象徴化したライダーであるといえ、歴代でもかなりシンボリックなライダーだな、と。
 『仮面ライダーファイズ』感想の文中で触れましたが、仮面ライダーのベルトは、現世の人間を他界に寄せる機能性を持ち(この構造を逆転させたのが『ファイズ』の神髄)、その“両義性を持った状態”そのものを物語構造と一体化させたのが、仮面ライダー電王、と言えるのではと思います。
 ……という辺りで、だから『響鬼』を最初から最後までしっかり見なくては、という積年の宿題がまた顔を出すのですが、それは余談。
 話戻って『シンケンジャー』になると、侍達が守る世界としての「此の世(人間界)」と外道衆の棲む「三途の川」が明確に対比される一方、シンケンジャー側が境界を越えて他界へ渡る事は無いので、今回の共通項からは外れる形になります。
 また、人間世界に攻め込んでくる敵が「異世界」に存在する事自体はオーソドックスな設定ではあり、それ自体に特異性は見えないのですが、ではその異世界が物語においてどういう位置づけなのかといえば、外道衆の出自や、賽の河原とセットで描かれる映像から、三途の川(という今作における異世界)は、此岸と彼岸の「境界」として設定されているのは明白であり、そこにはやはり「境界」への強い意識が窺えます。
 外道衆の出現する「隙間」というのもすなわち、“物と物との「境界」”であり、ネガ存在としての“はぐれ外道”が、シンケンジャーに代わってこの境界を行き来する役目を担っている、と言う事ができるかもしれません。
 『オーズ』では現世と他界が描かれておらず、今回の資料とした8作品の中では、唯一の完全な例外。
 ある程度こじつけるならば、主人公である映司が、精神的に「現世/他界」の狭間を浮遊しているとはいえ、外的なギミックとしての「現世/他界」ではなく、内面的な「現世/他界」が主題に組み込まれているといえますが、そう見ると『オーズ』感想に書いた

 映司がはぐれ外道に近い存在なのではないか、というのは私の中で凄くしっくり来るものが(笑)
 という見立ては、ばちっとはまってくるものが。
 『ゴーバスターズ』では再び、外的なギミックとしての二つの世界が立ち現れると共に主人公達がこの「境界」を超える事に大きな物語的意味が設定されているのですが、後半戦を未視聴。
 そして『トッキュウジャー』においては、第2話で言及されるように「俺たちは今、過去も未来もなくて、ただ列車で漂ってるだけ。言ってみれば、幽霊列車の幽霊だよ」と、主人公達が他界に常在しているというのが大きな特徴となり、毎回毎回、シャドー駅に降り立つという形で、現世と他界を行き来するという構造に。白線と共に到着する烈車や、乗り込む際に通り抜ける自動改札なども、二つの世界の境界線をより明確にし、何より、レインボーラインという名称は、極めて示唆的(という事に5年経って気付きました!)。
 この越境を可能とするのが劇中では「イマジネーション」であると位置づけられるのですが、『トッキュウジャー』は更にそこから、「現世/他界」という二つの領域に「子供/大人」を対応させながら“境界を越えてヒーローになる、とは何か?”という点を掘り下げたのが絶妙であり、そこにはまた、ごっこ遊び・通過儀礼・過渡期、といった様々な要素が絡み合っているのですが、「二つの世界を行き来」しながら「過去も未来もない」というトッキュウジャーは、極めて「境界」に意識的な戦隊であったと思えます。
 で、小林靖子メインライター作品においては、「別離」というのが重要なモチーフとして浮かび上がってくる事が多いのですが、「境界」への意識を強く持ち、物語構造の中に「現世(内)」と「他界(外)」という概念を明確に組み込んでいるならば、それも一つの必然的な流れであったのか、と今更ながらに一つ納得。
 こういう観点から『トッキュウジャー』のより詳細な分解とかはやってみたいのですが、とりあえず、覚え書き的に。
 広義のヒーロー作品において「現世」の人間が「他界」の力を得る、という状況設定そのものは珍しくない(むしろオーソドックス)のですが、「現世」と「他界」の人間的移動が積極的に描かれて物語構造に組み込まれている、というのは、こと東映ヒーロー作品においては一つの特徴といって差し支えないのではないかと思われ、特にその移動が繰り返される『電王』と『トッキュウジャー』は、象徴的といえます。両作品ともに「電車」を媒介装置としながら、電車の内部空間の意味づけが違う(『電王』では境界空間であり、『トッキュウ』では他界である)というのも興味深いところですが、この辺りを小林靖子作品以外の検討も含めながら掘り下げてもみたいなと思いつつ、今回の与太話でした。