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星祭りの日に

続・小林靖子と「境界性」

 最近、「境界」というのが興味のあるテーマなので(まあ大概、何かそういう本を読んでいるのだと思っていただければ)、つらつらと思考が彷徨いがちなのをメモ的に。
 さて、『烈車戦隊トッキュウジャー』は、主人公達が基本的に「他界」の住人であり、毎回レインボーラインがシャドー駅に降り立つ時に「現世」に接続されるという話を書きましたが、考えてみるとライト達の秘密基地である木(大樹)もまた、例えば村境の目印にされたり、たとえば神の依り代であるひもろぎになり得たり、と「境界性」を色濃く有したシンボルといえます。
 そういう点で、5人を繋ぐ原点の部分に既に「境界」を示すシンボルが置かれていたといえるのですが、5人がレインボーラインに引きずり込まれたのがその木の前であった事を考えると、あの夜、なんらかの呪術的役割を担っていたと考える事も出来るかもしれません。
 合わせて、ライト達の運命が大きく変転を迎えたのは、「星祭り」という「ハレ」の日であり、ここにも非日常的な時空との繋がりが象徴的に物語に組み込まれて見えるのが、面白いところです。
 秘密基地などはビジュアル的都合が第一であったとは思いますが、白線や自動改札(門)含め、『トッキュウジャー』の随所に「境界」のシンボルが見え隠れするのは、少なくとも結果として物語に一定の性質を与えているようには思えます。
 そういえば、『百獣戦隊ガオレンジャー』は、パワーアニマルに選ばれた若者達が「現世」から切り離されて「他界の住人になる(事を強制される)」戦隊であり、これは「ヒーローになる」事で「社会性を喪失する」という古典的なモチーフを、物理的に図式化したものといえるのですが、戦隊シリーズでは案外と珍しいのかも(基地が実質的に外界から隔離されている場合はありますが)。
 ……まあ、
 「戦士になるつもりなら、今までの名前を捨てろ。俺はガオイエロー、おまえはガオレッド」
 が、イエローの俺ルール疑惑はあるのですが!
 『ガオレンジャー』はこの辺り、古典的なヒーローの「型」に物語上のエクスキューズを与えて図式化しつつ、最終的にそれを塗り替える事で現代的なヒーロー新生をやろうとした仕掛けは面白かったと思うのですが、いかんせん、ヒーロー当人達の「型」に対するシビアさが大雑把になってしまった為に、見ていてそこに劇的な変質を感じられなかったのが惜しまれます。
 途中、街に出て一般市民の前で生身のお互いを平然と「レッド」「ブルー」とか呼び合うトンチキな事になっていたりもしましたが……思えばあれは、ガオマウンテン=「山」(里に対する他界である)での暮らしが続く内に、徐々に人間から神霊に近づいていたのか。
 というわけで、「他界」←→「現世」の移動が毎回のように行われるという点で『ガオレンジャー』と『トッキュウジャー』は類似の構造を持っていたといえるのですが、“過去の記憶を明確に持たない”(共同体から追放された状況を示すスティグマ)事で「戦士になるつもりなら、今までの名前を捨てろ」を強制されていたのがトッキュウジャーともいえ…………つくづく、惣菜、外道(やはりコラボ映画で、キングが惣菜にドロップキックの一つぐらい入れておくべきだったのでは)。
 ついでなので、00年代に入ってから、ヒーローが「現世」(日常社会)から一定の隔離状態に置かれる戦隊を考えてみたのですが、やはり『ガオ』『トッキュウ』、後はせいぜい、『シンケンジャー』ぐらいのものでしょうか。
 もともと戦隊は、共同体への志向が強いというか、ウルトラマンと防衛隊でいうなら、防衛隊のポジションといえる場合が多いのですが、ここでまた小林×宇都宮作品が顔を出すのは興味深いところではあり。