落ち着きかけていた読書スイッチがまた入った
●『遠海事件 佐藤誠はなぜ首を切断したのか?』(詠坂雄二)
86件の殺人を自白し、うち9件で有罪判決を受け、死刑を執行された殺人鬼・佐藤誠。
多くを殺害しながら、彼が持つ同期は事件毎に違う。その都度必要に応じ、臨機応変に殺しているのである。そこに横たわる思想はなく、遠大な目標もない。
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行為へ至る安易性、短絡性等々、常人ならまずその解決に殺人など考えない問題に対しても、彼は殺人で解決を図った。
そんな佐藤誠はなぜ、屍体の首を切断し、あまつさえ、第一発見者として通報まで行ったのか。
殺人鬼の実像と共にその起こしたセンセーショナルな事件の真相に迫る小説仕立てのルポ、というやや変則的な形式の長編で、最初にミステリとしての核になる不可解な謎を明示しつつ、“それが何故不可解なのか?”を物語の進行と共に掘り下げていき、小説パートをコラムパートで補強する、という構成も巧妙で面白かったです。
最終的な“解”については物足りないところもありましたが、そこに辿り着くまでで充分に読ませてくれる内容でした。
●『電氣人間の虞』(詠坂雄二)
語ると現れる、人の思考を読む、導体を流れ抜ける、旧軍により作られた、電氣で人を殺す……遠見市とその周辺だけで語られている、地域限定の怪異・「電氣人間」。
課題の為に電氣人間を調べていた大学生が死体となり、その幼馴染みは残された資料から電氣人間を追いかけるのだが、果たして、怪異は存在するのか、しないのか。それとも、そこにあったのは、人の殺意なのか?
死者の謎を追い、真実に迫っていこうとする骨格と文法は本格ミステリのそれながら、内容はオカルトやホラーも入り乱れ、物語の正体を掴ませない手法は、先に読んだ『5A73』同様というか『5A73』は、今作の手法を雛形にしていた模様。
個人的に、『5A73』を読んでいなければ、この物語がどこに辿り着くのか、に興味を持続できなかった可能性もありそうですが、『5A73』を読んでいた為に成り行きの一部が読めてしまった部分が良し悪しどちらに転んだのか自分でも判断つかないところがあり、覆しようのないIFとはいえ、どちらを先に読めば良かったのかは、ちょっと悩ましい気持ちに。
ただ、『遠見事件……』を先に読んでいた方が面白いのは確実であり、この作者の作品は、どうやら刊行順に読んでいくのが良さそう。
内容としては正直、内向的な語りの部分に面白みをあまり見いだせず、道中の感触はいまちだったのですが、仕掛けがわかった時に膝を打つ面白さはありましたし、最後に大笑いしてしまったので、気持ちよい敗北感(笑)
続けて3作読んだ詠坂雄二、『5A73』も『遠見事件……』も、“劇中で起きた出来事”をベースに“劇中の作家”が“劇中で執筆した書籍”というメタ構造を有しているのですが、それを先に明示する事によって、“真実”と“筆者の読ませたいもの”の間にある曖昧な空間が浮かび上がり、独特の割り切れない読後感が発生するのが、面白い読み味でありました。
引き続き、他の作品にも手を出してみたい予定。
●『A先生の名推理』(津島誠司)
深夜の街で咆哮をあげる夜光怪人、消えた山小屋、ニュータウンを襲った謎の怪人……奇怪な事件に頭を悩ませる「私」の話を聞いたA先生が、その謎を鮮やかに解きほぐしてみせる、シリーズ短編集。
先日読んだ『コージーボーイズ、あるいは四度ドアを開く』(笛吹太郎)で紹介されていたので読んでみたのですが、いまいち。
基本、超常現象としか思えない怪事件に、安楽椅子探偵であるA先生が論理的解釈を与えて解決していく構成なのですが、〔不可思議→解釈〕の工程における、〔出来事Xが、Yに見えたけど、実はZだった〕において肝心な「なぜYに見えたのか」の部分が主に文章力の問題で説得力が弱く、いやそれYに見えるか……? というところで生じてしまう疑問を「語り手がそもそも夢見がち」とでも解釈しないと飲み込みにくいのが、何より苦しかった点。
その為、一度引っかかりだすとあれもこれも引っかかってしまったのですが、逆に、一つ飲み込んで笑えるとみんな笑い飛ばせたのかもしれません。
発行が1998年なので、もし20年前に読んでいたら、怪異と論理のアクロバットとして面白く読めたかもしれませんが、今読むと苦しい一作でした。
●『絞首商會』(夕木春央)
時は大正――芸術的な美男子にして優れた頭脳の持ち主であるが、大変な人間嫌いの元泥棒・蓮野の元を、3年前に泥棒に入った屋敷の夫人が訪れてくる。夫人は、屋敷で起きた殺人事件の真犯人を警察よりも先に突き止める探偵を蓮野に依頼し、嫌々ながらも腰を上げる蓮野だが、4人の容疑者はいずれも何故か、事件の解決に奇妙な熱心さを見せるのであった……。
探偵をやりたくない元泥棒の探偵役・蓮野、人嫌いの蓮野になにかと世話を焼く友人で画家の井口、その妻と姪、井口のパトロンであるパワフルな会社社長……といったキャラクターの造型は面白かったですが、やたらと主観人物が代わったり(その癖、井口のパートは「私」で進行する)、幾つかの場面で時制が前後したりと、必要以上にややこしさを感じる話運びはちょっとマイナス。
ただ、真相の一歩手前のシーンは、成る程、と面白かったです。
●『白戸修の事件簿』(大倉崇裕)
ある時は試験前だというのに警察に追われている友人を匿い、ある時は間違い電話の相手に助けを求められて応えてしまい、お人好しでトラブルに巻き込まれやすい青年・白戸修の日々を描く連作短編集。
登場人物が雑な推理とノリツッコミを連発し、台詞で「!?」が連打される作品を「ユーモア・ミステリ」と呼びたくない派としては(最近、なにか読んだらしい)、主人公が巻き込まれるシチュエーションとリアクションで面白がらせ、小粋なオチでニヤリ(クスリ)とさせる、どこか海外のユーモア・ミステリを思わせるタッチで好みだったのですが、難点は、収録5編の出来不出来が激しいこと。
その為、文句なしにはお薦めしにくいのですが、なんでも屋を手伝って、電柱に看板をつけていく違法なバイトを行う羽目になる「サインペインター」は好篇でした。
●『殺意は砂糖の右側に』(柄刀一)
同居していた祖父の死をきっかけに、わけあって東京に出てきた従弟・天地龍之介を居候させる事になった会社員の「私」は、IQ190で博覧強記にしてカメラ記憶の持ち主、膨大な知識をその脳髄に収めているが小島暮らしでどこかぼんやりとしており、世間知らずで生活能力に多大な不安を抱える龍之介を放っておけず、行きがかりから、龍之介の後見人になる筈だった人物捜しを手伝う事に……。
《天才・龍之介がゆく!》シリーズ第1作。
常々、シリーズ探偵の長編1作目としては地味なタイトルだな……と思っていたのですが、いざ読んでみたら、龍之介の光章来訪から後見人探しの旅路を進めながら、1章につき1つの事件を解決していく実質的な連作短編スタイルとなっており、タイトルは章題の一つという事で、納得。
……まあ地味に変わりはないのですが、この後シリーズが10作以上にわたって続いているので、このタイトルで良かったのでありましょう。
雑誌掲載で紙幅が限定されていた事もあってか、ポンポン事件が起きてポンポン推理が進んでいき、読み手に推理を巡らせる余地や話の奥行きなどは薄めなのですが、盛りに盛りまくった探偵役と、実に凡人だが探偵役の弱点を社会的常識で補っていく事になる「私」の二人には好感が持て――というよりも、この二人に好感が持てるのが今作最大の長所といえ――、読み味は悪くない一冊でした。
ちなみに、1章1事件と同時に後見人探しの物語も進んでいく形式の為、シリーズ名探偵物にしても結構なペースで事件に遭遇する事になっているのですが、この点にも関連して、「著者あとがき」が2000年代初頭の探偵論として面白いので、ちょっと長くなりますが引用。
ちなみに、事件の謎を解くだけの役割に結晶化した探偵というものは、現代社会をステージとしたお話の中では存在しにくくなっている。彼らは存在のリアルを求め、作品の中の物語性(テーマや他の登場人物の人生など)とかかわるか、影響し合うかすることになるようだ。だから、キャラクター探偵の短編はむずかしい。彼らは次々と事件を解決する名探偵という役割を与えられており、その事件が内包するものといちいち影響され合っていられないのだ。探偵役である人物の主体性が揺らいでしまうし(それを目的とした連作も面白いが)、彼らも疲れてしまうだろう(それを書き込むには枚数も少ないし)。いきおい、短編の中の名探偵は、ただの謎解きマシーンになってしまう。あるいは、なにものにも動じていないような超然としたマスクをかぶることになる。
龍之介シリーズの場合、ミステリーは雪で、天地龍之介は柳なのかもしれない。彼の主体性は、ほんわかとした湯気に似て、無に近い。そしてその湯気が、せめて、彼らの周りの物語に温かみをわずかにでも残すことができれば……というところではないか。
シリーズ名探偵の都合というものも踏まえつつ、天地龍之介は、柳に風か雪折れ無しかと、事件が内包するものの影響を極力受けない名探偵であるが(だから次々と事件に向き合っても疲れる事なく進んでいけるが)、龍之介が事件を解決する事によって、関係者の物語に温かみが生じてほしい――それがこのシリーズにおける名探偵の一つの「理由」である、というのは、メタ視点も含め、積み重ねたロジックの先に物語としての飛翔を見る、柄刀さんらしいと感じさせる一文でありました。