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ラーメンを食べるということ

仮面ライダー響鬼』簡易総括3おまけ

 「生きるってことは、美味しいってことじゃないですか」
 (津上翔一/『仮面ライダーアギト PROJECT G4』 (監督:田崎竜太 脚本:井上敏樹))

 どんなジャンルでも、触れたその時はそこまで大きくなかったのに、何故か心の中に残り続けている内に存在感を増してくる言葉や場面というものがありますが、ここ数年の私にとってそれがこの翔一くんの台詞で、実は後期『響鬼』を見ている間、ずっと頭の片隅にこの言葉がありました。
 油断していると笑顔の翔一くんが出てきて「ヒビキさん、美味しく食べてますか?」と問いかけながら、大根の煮物を作り出しそうなレベルで。
 まあ実際の劇中では、ヒビキさんはストイックではあるがヒビキさんなりに人生を謳歌しており、30代独身男性の無神経さはたまに顔を出すも、人間関係の目配りもゼロではなく、概ねその“明るさ”が周囲にも伝わって良い影響を与えているタイプ、と描写されていたわけですが……ただ恐らく、井上敏樹にとってヒビキさんって、「こいつは美味しく食べているのか?」みたいな面はあったのではないか、とは思っていたり。
 なので、第34-35話における、母親の不在時にコンビニご飯で済ませようとしていた明日夢の元をヒビキさんが訪れて夕食を振る舞おうとするが上手くいかず、男2人で頑張った末になんとか美味しく食べられるものを作るに至る挿話、が割と趣深いものを感じて、好きだったりします。
 かなり癖の強い前後編だった為、感想本文ではそこを掘り下げる余裕が無かったのですが、考えてみればトドロキのデート失敗騒動のオチは、自家製うどんを振る舞って仲直り、ですし、食に始まり食を見つめ直し美味しい食に終わる、井上イズム溢れる前後編だったのだな、と。
 石田監督による過剰気味の演出や、体制変更の荒波による軋みが露骨に見えるなど、出来が良いとは言いにくいエピソードではあるのですが、改めて全体の中での位置づけを見ると、京介登場の後、玩具関係の事情の大きかったであろうアームドセイバー投入を挟んでから、これまでの『響鬼』世界と井上脚本のチューニングを早急に行おうとしたエピソードであり、それ故に他の回と比べても雰囲気のズレが大きくなったのかもしれません。

 ……昨日、「『響鬼』感想落ち穂拾い、だいたい集めた気がする」と書いた直後に、また追加していますが、『響鬼』視聴終了後、メタ的な要素からできる限り距離を取って全体を見ようとしていた思考に一区切りを付けてみると、逆に徹底的に井上敏樹の作家性をベースに後期『響鬼』を考えてみるのも面白いな、と(エネルギー的に今回そこまでやる気は無いですが)。
 あと単純に、連日の暑さにより、こういう、ゴールを決めずにふらふら蛇行していく文章の方が書きやすいという個人的事情もあったりします(笑)

 で、「食事」といえば、これは前半からなのですが、明日夢母が忙しく働きながらも育ち盛りの息子の為に少なくとも劇中描写においては、しっかりとした食事に気を配る姿が描かれていたのは、良いところだったな。
 いまいち明日夢くんには伝わっていない節はありましたが、それを押しつけないところも含めて、明日夢母に対する良い目配りになっており、そこには多分に『響鬼』的理想論の面もあるでしょうが、フィクションとしては充分にありな見せ方であったと思います。

 それから逆に、劇中で鬼活動以外の描写が少ないながら、ヒビキさんなりに「人生を謳歌している」感がどこから出ていたのだろう……と考えてみると、ヒビキさんというのは「人間が好き」な人であり、今作は(周囲の人々も含めて)根底にその視線を有している事を重視していたのが、作品全体の空気としてシリーズ従来作とはひと味違うものが出ていた一因であったように思えます。
 ……で、ようやく辿り着いたのですが(我ながら長かった)、“『響鬼』における《仮面ライダー》性”というのは、ヒビキの設定を裏返した時、諸々の装飾を剥ぎ取っていった時に残る「人間を好きになった鬼」のモチーフにあり、そこから紡ぎ出された「鬼が人助けをするのは人間が好きだから」というのが、かつて『仮面ライダーアマゾン』がその立ち上がりにおいて問い直した、


 改造手術という「擬似的な死」によって本質的に「社会」から切り離されながら、その“人間社会(公)ないしはそれを構成する人類の自由と平和を守る”為に戦う事を自明の理としてきた――すなわち、社会性から切り離されながら社会を守ろうとする不均衡

 という、シリーズの抱えていた命題に対する、30年越しの極めてシンプルなアンサーだったのかもしれないなと。
 そう考えると、今作ないしヒビキという主人公は、『クウガ』とはまた別のアプローチで、《昭和ライダー》に対する現代的再構築――時間をかけたアンサーの物語的掘り下げ――を行おうとしていたようにも思えます。
 勿論、今作世界における鬼は、改造人間のような不可逆性は持たず、猛士という支援組織の存在もあって社会からも切り離されてはいないのですが(ただし、「名前」だけは、これまで生きてきた社会とは切り離された別個のものを与えられる)、「人助けをする鬼」から「人助けの為になる鬼」というのが、『響鬼』として進もうとしていた世界であったでしょうか。
 また、『アマゾン』は、シリーズ諸作の根底に流れる
 「自分は何者なのか」
 「守るべき存在とはなにか」
 を意識的に問い直す構造を有していたのですが(実作ではその意欲的な立ち上がりが最後まで続きませんでしたが)、これは普遍的な命題の形で明日夢くんの歩みを通して描かれているといえ、『響鬼』は異色作の皮を被る一方で、存外“《昭和ライダー》の宿題に、向き合おうとした作品”であったとも思えます。

 ……そんなこんなで、この一週間ぐらい、ああでもないこうでもないと文章を重ねて参りましたが、『響鬼』、前期と後期の体制変更にともなう諸々の荒療治により、言ってしまえば根っこのところで一貫性が無い、とはいえ全て焼け野原にする事はなかった引き継ぎによるひずみなどが複雑に絡み合っており、凄く、どこにコアを見るのか、の照準が合わせにくくなった作品でありまして……まあ要するになにより私自身の「散漫になっていた焦点」の整理に時間と文章量が必要であったようであります(笑)
 それはまあ、いつも以上にまとまりが悪いわけで……猛暑のせいだけではなかった、と納得し、いやそんなオチでいいの?! となっておりますが、ここまでお読み頂いた方におきましては、本当にありがとうございました!
 我ながら蛇行が激しすぎましたが、ここまでやっておくと、『響鬼』について考えていた事が、ある程度までアウトプットできたように思います。

 ところで、実際の本編のエンドシーンをくさすつもりは全くないのですが、最終回感想についてGimmickさんにいただいたコメントが衝撃的で、最後、ヒビキと明日夢が2人で夕陽を見ながら出てくる言葉が「ラーメンでも食いに行くか?」だったら、ヒビキさんと明日夢くんの距離感の落ち着くところとして私の中では納得度がかなり高く、一仕事終わったらさくっと撤収する猛士イズムと、ヒーローだって俗っぽくも生を謳歌しようとする井上イズムの融合点として、凄く痺れたかもしれないなと!
 要するに、ヒビキと明日夢について、「ヒーローとヒロイン」の距離感よりも、「テーブル挟んで、(たまに京介も加わって)ラーメン食べて近況を話す距離感」が見たかったのかなと(笑)
 それはきっと、世界が美しいってことですよヒビキさん! と、私の中の翔一くんが蕎麦を打っています。
 ……まあ最終的には、俗界を超越しそうになっていたヒビキさんが、そういうものに“気付く”物語でもあったのだろうなーとは思いますが。