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ウルトラマンコスモス』感想・第49話

◆第49話「宇宙の雪」◆ (監督:市野龍一 脚本:大西信介 特技監督鈴木健二
 カオスヘッダーの通り道を調査中のチームアイズは、テックブースターで地球への帰還途中、宇宙の神秘スノースターと遭遇。
 謎に包まれた生態を持つ泡雪のような小型生物は、放射性廃棄物を分解する性質からある種の環境生物として保護対象になっており、その美しさに盛り上がっていると、地球に昆虫系の怪獣が出現。
 街への進行を寸前で食い止めたアイズだが、怪獣は麻酔弾が効果を発揮したわけではなく、極端に生命活動が弱まっている事が判明し、警戒体制は維持しながらも攻撃も捕獲もしない事を決めるキャップ。
 「どんな怪獣だって、自分に与えられた命を、精一杯生きてるだけなんです。たまたま、人間と出会ってしまったから……そうやっていい怪獣、悪い怪獣って、区別されてしまうんだ」
 「……相変わらずだな、おまえは」
 人間に害を及ぼさない“いい怪獣”ばかりなら戦わなくて済むのに、とこぼすフブキに対し、そもそも生物としての怪獣に良いも悪いも無いんだ、とあくまでも「怪獣」を一個の命として捉えるムサシが人間を尺度にした価値判断そのものに疑問を投げかけ、メインライターの筆による『コスモス』ど真ん中、カオスヘッダー関連を除くと、話数的にも一種の最終回のような内容。
 “いい怪獣”という言葉を用いて、その物言いが人間の傲慢なのではないか、と突くアプローチはなかなか面白いのですが……『コスモス』で毎度引っかかるのは、ではムサシの立場はどこなの? という部分で、フィクションなので綺麗事も理想論もテーマの強調も大いに結構なのですが、その代弁者であるムサシが、自身が“人間”であり“人間社会に生かされている”事に対してあまりにも無頓着かつ無神経に見える――これはコスモスと融合した影響もあるのかもしれませんが、第49話に至っても未だに、ムサシがどこから物を言っているのかがわからないのが、個人的には致命的なボタンの掛け違いになってしまいました。
 基本的に、陽性で親しみやすい主人公像を意識しているのでしょうが、ムサシの実態はかなり超然としているというか(「子供の夢」をそのまま抱えている、ともいえますが)、くしくも同期『仮面ライダーアギト』の翔一くんに重なる部分があって……そう考えると翔一くんがやたら生活感を出していた理由が逆説的に窺えてみたりはします。
 そしてそんなムサシの立ち位置不明と連動する形で、例えば、アイズが目一杯同情しながらも警戒態勢を取りつつ怪獣を監視している間、近くの街の住人たちは避難所で眠れぬ夜を過ごしている事は容易に想像され、フィクションの機能としてその要素を排除するのは理解できるのですが、今作ここまでの描写の積み重ねを考えると劇中のムサシたちも思考からそれを排除しているように見えてしまい、怪獣への感情移入を語られれば語られるほど、その背後でチームアイズの面々が無視しているものの方が、性格的に気になってしまいます。
 アイズのメンバーの中に一人ぐらい、そこのバランスを取れるキャラが混ざっていれば良かったのですが、新機軸を強調したいあまりに、チーム揃って怪獣への感情移入が強すぎるのは、メンバー構成として失敗ではなかったかな、と。
 また、最新鋭機を乗り回し、豊富なバックアップを受けながら、明らかに性能の劣る機体で戦う防衛軍に毒づく姿を代表的に……意地の悪い表現になりますが、要するにチームアイズのやっている事は、“富める者による保護活動”であって、「地球に生きる者同士、場所を譲り合い共存する事が未来へ繋がる」というテーマはわかるのですが、劇中見る限り、その“譲り合いで真っ先に割を食う社会(人々)”の中にチームアイズが入っていない(その自覚がどうも感じられない)のが、アイズの言行をどうしても好意的に見られないところ。
 トレジャーベースの設定そのものは合理的なのですが、結果として、チームアイズと劇中市民社会の分断を大きくしてしまっており、こういうテーマだからこそむしろ、チームアイズの面々は意識的に、泥をかぶる側の人々に近付ける工夫が必要だったのではないか――シンプルに言えば、もっと生活感を描く必要があったのではないか、と思います。
 第15話で少し切り込んだ後、ややこしくなるのを避ける為か基本的に無視されてきましたが、極端にいえばムサシ、怪獣の命を守る為だったら、避難を終えた後の街なんて多少吹き飛んでも構わない(そこに存在する物や思い出に重きを置かない)主人公に見えてしまわざるを得ず、そこは切り詰めずにもう一歩踏み込んで、ムサシの足を地に着けるエピソードが必要だったのではないか、そうする事で説得力を増す綺麗事もあったのではないか、と考えます。
 あまり引き合いに出すのもあれですが、前作にあたる『ガイア』は、“異能の天才主人公”と“エリート軍人の集う天空基地”を重ねつつ第三の視点として“地上のマスコミ”を繋げる事により、「ヒーローの視点が度を越えて浮き世離れしてしまわないか?」という事に対する警戒感と自意識が働いていたのですが、今作はメインテーマに拘泥するあまりにそういったバランス感覚が欠落してしまい、発生した浮き世との隔たりを埋める為に防衛軍を雑な悪役として定期的に邪魔者扱いする事でアイズの正当性を主張する事になったのは作劇としての不幸であったのではないかな、と。
 生命活動を停止したかと思われた怪獣は、変態の為に細胞を自己崩壊させていた事が発覚し、アイズの攻撃やコスモスの介入があった末、スノースターの正体は、怪獣の変態した姿であったと判明。
 「みんな、俺たち人間の勝手な都合だ。どんな生物も、初めから人間に害を加える目的で生まれてくるわけじゃない」
 強力な火球を放ち人類社会を脅かす怪獣に思いも寄らない別の姿があった事により、宇宙には未だ人知の及ばないサイクルがあり、人間の尺度で目の前の善悪を判断してしまう事の危うさと命の尊さを描く事に力を込めると同時に、“いい怪獣”という言葉で、防衛軍のみならずチームアイズに対する皮肉を盛りこんだのは、メインライターとしての大西さんが出来るギリギリの踏み込みであったでしょうか。
 最後に、中盤のムサシの言葉をキャップが繰り返す形で重ねてテーマが強調された結果、なんか上司が部下の発言をそのままいただいて、いい事言った風になってしまったのは、やむにやまれぬ不幸な事故でありました(笑)