東映特撮に踊らされる駄目人間の日々のよしなし。 はてなダイアリーのサービス終了にともない、引っ越してきました。
旧ダイアリー保管用→ 〔ものかきの倉庫〕
特撮作品の感想は、順次こちらにHTML形式でまとめています→ 〔特撮感想まとめ部屋〕 (※移転しました)
HP→〔ものかきの荒野〕   Twitter→〔Twitter/gms02〕

久方ぶりに雑文を書き散らす

仮面ライダーアギト』感想・番外

 後でまとまるかまとまらないかわからないので、思考の切れ端をざくっと書き散らしておきます。
 今回、20年ぶりに配信で『アギト』を見るにあたって、折角なので配信ならではの条件を活かそうと、私自身が記憶している内容はさておいて、敢えて“メタ情報を徹底的に排除して見る”というのをやっているのですが、そうやってみるとハッキリしたのは、現在進行形の放映作品としてはCMなり書籍なりのメタ情報を一定の前提としている――一定の興味を持って番組を見ている視聴者に対して、それらが自然と目に触れる事による、劇中情報とメタ情報のミックスを基準に物語が作られている事で、これはまあ、うっすらと理解はしていたのですが、改めて20年後に情報の内容を分断してみると、やはりそういうものなのだな、と。
 逆に言うと、数年を空けてメタ情報を抜きに作品を見ると、結構よくわからないまま処理されるものもある、という事なのですが、それはそれで放映当時には絵本だったり図鑑だったりの誘導意図が当然あるのでしょうが。
 その上で更に『アギト』というのは、“名付けによる個別化”を排除する方向性があって、さすがにメイン3ライダー「アギト」「ギルス」「G3」は劇中で固有名詞が提示されるのですが、物語の進行によって「アギト」は固有名詞である事が分解されてしまい、「G3」もバージョン違いに拡散されていき、この辺りの意味づけは、要検討。
 前作『クウガ』は“名乗らない”事にリアリティを置く一方で、個を識別する為の名前の要素には意味を持たせていて、グロンギが同族の中では個々の名を持っている一方、警察はそれを番号で識別する、というのがリアリティを付加すると共に作品の核である「コミュニケーション」の不全を示していたのですが、『アギト』は徹底して、物語レベルではアンノウンから名前を剥奪しているという点に、掘れる鉱脈があるような気はしているのですが、もう一つ手応えが無いので、特に無かったりするのかもしれません。
 で、この“名乗らない”事のリアリティはやがて逆に、“名付ける(名前がある)”“名乗る”事のリアリティに取って代わられるわけですが、その転換点がどの辺りにあるのか、はきちんと把握したいところがあったりするのですが、これまで、そこに強く着目して見ていたわけでもないので、自分の感想を読み返してもいまいちわからず、こうなると実作を見るしかないので、まあ、努力目標。
 余談ですが私、『機動戦士ガンダム』で、連邦の軍艦ホワイトベースの事を、それを知るよしもないシャアが見た目から「木馬」と呼称するのが凄く好きで(これは後のシリーズ作品に様々な形で踏襲されますが)、“名付け”と“名乗らない”のリアリティの見せ方としては、ホント絶妙だなと。
 話戻って、記憶の(印象の強い)範囲で、明確に“名乗る”“名付ける”に意味を持たせていた《平成ライダー》というと『電王』ですが、イマジンが名前を与えられる事で“記憶-時間”と接続される事と、劇中に登場する“名前の無い男”の存在は、非常に示唆的といえましょうか。
 実際の作劇としては、直接的に名前を名乗るというよりは、代名詞代わりのキャッチコピーを口にする代替え的名乗り行為が多いかと思いますが……『カブト』がどうしていたのかは、未見なのでわからず。
 この辺り、商業的ギミックと切っても切り離せない部分なので、玩具的な要請と絡み合うところなのでしょうが、“名付ける(名前がある)”“名乗る”事を劇中のリアリティとしてより明確に押し出していたのは『W』で、これは『W』がいわゆる《昭和ライダー》へ意識が向いていた作品である事も影響しているかとは思いますが、逆に、初期《平成ライダー》への意識が強い『オーズ』では、“名乗る”要素は薄くなっていた記憶。
 『W』で一つ特徴的なのは、なぜ“名乗る(名前を持つ)”のかについて、「劇中実社会における識別」という理由付け(変身者の自己認識)が存在している事で、ここで社会の外側に居た「仮面ライダー」が社会と再び接続され、「未確認生命体第4号」とは真逆の形でリアリティが発生している、といえるでしょうか。
 『鎧武』で、ビートライダーズのアーマードライダーが名前を必要としたのと、ゲネシスドライバー組が劇中で名乗らなかったのは、この辺りの理屈で解釈できない事もなく。
 で、『W』はその“名前を持つ”事の意味が、劇中の主題の一つと、ばっちり噛み合ったところが、お見事でありました。……なお『剣』が、仮面ライダーと社会の接続に関する意図があったのか、全然無かったのかは、ホントよくわからないところで(笑)
 近年だと大森Pが『W』(塚田P)の路線を踏襲しているといえますが、〔仮面ライダー-社会〕のモチーフを繰り返し描く内に、大森Pの中の「仮面ライダー」概念が膨らみすぎて、劇中に上手く出力できていないひづみがどんどん膨らんでいる印象(特に『ビルド』はそういう感じで)。
-----
※追記
 『W』『フォーゼ』の場合、「仮面ライダー」という言葉の取り込みにあたって、都市伝説、というクッションを挟む事により、そこに“大衆の意志”を巧妙に盛りこんでいるのですが、これが大森P作品になると、「仮面ライダー」という言葉の中に“大衆の意志”が盛りこまれているのは当然の前提、となっている節があって、それが『ビルド』終盤や『ゼロワン』3クール目以降、『ドライブ』における「魔進チェイサー」→「仮面ライダーチェイサー」のリネーム、などにおいて「仮面ライダー」という言葉の持つ重量、における認識のズレを作り手と受け手の間に生んでいるのではないか、という気がします。
 例えば『ドライブ』の場合、「仮面ライダー」の発案者はブレンなわけで、その言葉に重要な意味を持たせたいなら、名付け親のブレン自身にそれなりの重みを与えるか、例えば進ノ介による強烈な上書きによって劇中における重量を作り出さないといけないのですが、その仕掛けの不足(欠落)が、しばしばボタンの掛け違いになっているかな、と。
 あと『W』は怪人ポジションが、適性のあるメモリ(「マネー」だったり「イエスタデイ」だったり「ナスカ」だったり)を用いる事で、その名を一種のスティグマとして自らに刻み込む――事で徹底的に“名付ける”構造になっているのですが、『W』への意識が見える『ドライブ』では、ロイミュードが進化体となる事でただのナンバーから自らに名前を付ける行為をしており、これが上手く物語として回収されると良いなと思うところです。
-----
 《平成ライダー》も20年を越えて、そろそろまた、“名乗る”事へのカウンターが来る事もあるのかもなどとも考えつつ……ああ、そういえば、『アマゾンズ』、見ていない。

 あともう一つ、上述してきたテーマとはまた別の話で、忘れないように『アギト』に関するメモですが、『アギト』では複数ライダーを出した結果として、“仮面を被る”者と“ベルトをつける”者とに分かれた事が大きな意味を持ち得たと思うのですが(少なくとも『ファイズ』に繋がっていく)、『龍騎』がそこをどうしていたのかは、忘れずチェックしたいところなのであります。