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苦手パターンにクリティカル

ウルトラマンコスモス』感想・第12話

◆第12話「生命(いのち)の輝き」◆ (監督/特技監督:北浦嗣巳 脚本:武上純希
 (やめて! ころさないで!)
 地中から出現した、巨大な幼虫の様な怪獣と対峙したフブキの脳裏に響く少女の声。それはフブキにとって聞き覚えのある声であり……少年期のフブキが静養中の螢が村で、3歳の時に死んだ筈の妹が成長した姿と出会ったという幻想譚と、その少女が怪獣イフェメラへの攻撃を止めようとする幻想譚が組み合わされ、蝉時雨をBGMに「儚い命」で結びつけられるのですが、少年フブキの神秘体験と怪獣イフェメラの間の接点がこじつけようのないぐらい遠距離すぎて、どうにも無理矢理。
 その上、500年周期で出現する怪獣の命はたった一日だった! その限られた命を懸命に生きる姿の尊さ! に近視眼的になるあまり、「生まれたての赤ん坊が遊んでいるよう」だとしても工場をボディプレスで破壊し、瓦礫を放り投げてフブキ機を撃墜した怪獣が四つ足から二足歩行に立ち上がろうとする姿に、声援を送るリーダーとドイガキというとんでもない事故映像が発生し、さすがに正気か、君達。
 螢が村に飛んで謎の少女の姿を確認したムサシ&フブキが、イフェメラの元に合流した頃、防衛軍はキャップの反対を押し切って怪獣へのミサイル攻撃を決定。
 「怪獣とはいえ……掛け替えのない命なんです!」
 「怪獣の命より、施設の安全が優先される!」
 統合防衛軍の佐原司令が、すっごく雑に悪役ぽい見せ方で、キャップの示す「掛け替えのない命」に対して、無機物である「施設」を天秤の皿に乗せているような悪印象を上乗せされているのですが、ここで持ち出されている「施設」=「政府の機能維持に直結」=「多数の人命に関与するもの」なので、キャップが天秤の皿に乗せなくてはいけなかったのは「怪獣がこれ以上、破壊活動を行わない事の確信的保証」であって、キャップの言行こそがだいぶ見当外れの感。
 この後ミサイル発射を止められなかった事に関して「俺の力不足だ」と発言するのですが、相手を説得する材料を全く集めようとしていないのだから、それは全くその通りです。
 で、現場の隊員たちが何をしていたかといえば、ただ怪獣を間近で見つめていただけであり、前回のムードン親子の擬似的な再会に対してやたらめったら感傷的になっていたのに続き、ここ数話のアイズメンバーは「人類文明と一個の命としての怪獣のバランスを考えている人達」ではなく「ただただ怪獣への感情移入が激しい人達」になってしまっており、脚本もさる事ながら、演出面での勘所を見誤っている印象。
 これが、イフェメラの行動を外部に説明可能なように(少なくともその検討を)している最中に、抑えの効かない防衛軍がミサイルを発射してしまった、とかならまだ飲み込めるのですが、印象論と推論で自分たちだけで納得して、それを視点の違う他者に説明しようとする意識が全く見えない組織を肯定的に扱われるのは、率直に辛いところがあります。
 例えば『ガイア』はその、「自分の頭の中で完結せずに、他人に説明し理解してもらおうとする事」を、我夢の人間的成長や藤宮の変化(そしてそれは、「世界の拡大と接続」である)と絡めて描いていたのですが、この相互理解の要素がまるっと抜け落ちたまま(怪獣とは相互理解しようとするのに、人間とはする気がないとか、カルトの道まっしぐらでもありますが……)、個人的にはだいぶ地雷ワードだと思う「掛け替えのない命」を振り回して突き進まれるのはかなり厳しいので、手の入ってほしい部分。
 キャップから退避命令を受ける現地メンバーだが、フブキはミサイルを迎撃する為に離陸。その決死の行動にコスモスさんが出社してミサイルを撃墜するが、撃墜し損ねたミサイルの、迎撃システムにやられた(笑)
 人類の科学技術に真っ正面から足下をすくわれるウルトラマンというのは、なかなか見ない光景な気がしますが、かくしてコスモスが撃墜し損ねたミサイルが怪獣に直撃。
 一度はコスモスに向けて攻撃を仕掛ける怪獣だったが、コスモスのちょっと待ったポーズを見て矛を収め、その身を挺して守っていたのは、卵と判明。イフェメラの“一日だけの命”の意味は、次の世代を生み出す事にあったのだ……と収めるのですが、うーん……“500年後に孵化したらまた暴れる怪獣の卵”を、安易に保管する事にしてもいいものなのやら。
 タイムスケールが大きすぎて「預かる」と宣言した当の本人にも責任の取りようが無い案件になっていますし、500年後の人類に希望を託す、という話の作りでもなく、怪獣保護の過程においてアイズメンバーに「人類文明と怪獣の関係性における落としどころを考える」という要素がすっぽり欠落していて、突き詰めれば、500年に一度、生まれ立てにちょっと暴れるぐらい良いでしょ、という感情論をその場の感傷で未来に丸投げしているようにしか見えないのは、大変いただけませんでした。
 勿論、劇中においては500年もあればそれまでに様々な討議がなされると思いますが(途中でアレな事になる可能性も含めて)、その討議そのものの放棄についてアイズメンバーが無自覚(ないし作品として無描写)である、のは非常に不満。
 尺の都合などで単純化した部分もあるかとは思いますが、怪獣にとっては遊びのようなものでも人間は簡単に死にかねないからこそ、それとどう向かい合っていくのか、の点を放り投げて、内部完結した怪獣保護カルト化、という『コスモス』の作風から一番危惧していたパターンに直撃してしまい、今後の軌道修正を祈りたいところです。