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大科学電子電撃新星光超獣高速そして地球

海賊戦隊ゴーカイジャー』感想・第30話

◆第30話「友の魂だけでも」◆ (監督:渡辺勝也 脚本:香村純子)

 ――「若かったんだよ……世界中をあっといわせるような、生命工学の発明をしたかったんだ」

 「いえーーーい! 健康って、素晴らしいなーーー!」
 殿下が地球風邪から快復し、火星人の二の舞を回避したザンギャック旗艦を本国から訪れたのは、バリゾーグの生みの親である、大科学者ザイエン(CV:大教授ビアス様こと中田譲治!)。
 「現在のところ異常はみられない。剣の腕も、昔のままだ」
 「うむ。なにより、俺に忠実なのが素晴らしい!」
 「お褒めにあずかり光栄です、ボス」
 バリゾーグのメンテに来たという大科学者は、溶液に浮かぶ脳っぽい頭部デザインとマントのように広げた全身のチューブに、異彩を放つ重々しい左腕(ビアス様オマージュ?)が貫禄があって格好いいデザイン。
 また、シリーズとも縁の深いベテラン声優を起用した上で、ブリッジに入ってくるやインサーンと厭味の応酬を交わす事でしっかりキャラクターを印象づける手並みが、実に鮮やかです。
 その頃、久々のちゃんとした鳥占いにより飛び出した「スケボーの得意なライオン」を手分けして探し始めた海賊たちは、スケボーをしている人を見かけるや、片っ端から声をかけて回っていた。
 「おいおまえ。おまえ、ライブマンだな」
 と声をかけられ、
 「は? 違いますけど」
 で済ますこの星の住人は、ホント慣れが凄いな……(笑)
 マベ・ハカセ組、ルカ・鎧組が空振りを続ける中、ジョー・アイム組は、事故により階段を走り降りていく乳母車を目撃。それを止めようとダッシュするジョーと、たまたま通りがかった男が上と下から同時に手を伸ばして乳母車と赤ん坊を無事に救い……えっと……これは……どう考えても、超獣戦隊ライブマン』第18話「罠!丈の愛した頭脳獣」(監督:長石多可男 脚本:藤井邦夫)の再現なのですが、『ライブマン』ファンだという香村さんの濃厚な仕込みなのか、渡辺監督による師匠オマージュなのか、とにもかくにも運命的に出会った二人は恋にお……ちませんでしたが、アイムの呼びかけから互いの名前が「じょー」だと知る事に。
 「では、あなたも「じょー」さんとおっしゃるのですね」
 「大原丈ってんだ。そっちは?」
 これはタイミング的に偶然ではと思いますが、「がい」被りの「ジェットマン」編ではその二人を接触させなかったのが、「じょー」被りの今回はそれを糸口にする正反対のアプローチになったのがちょっと面白い事に。
 「名乗る必要があるのか」
 「いいじゃねぇか。袖すり合うのも多生の縁ていうだろ」
 つれないジョーに陽気な調子で絡んでいく丈は、「現役ヒーロー感を残している」のでも「中身はあの頃のヒーローのまま」でもなく、「20年後はきっとこんな大人になっているのだろう」といった感じで、演じる西村和彦さんのキャリアも反映してか、ここまでのレジェンドとは少々違った感じのアプローチ。
 今まで一番近いニュアンスだったのが、(くしくも)『ガオ』の獅子走だったかなと思いますが、これも近い年代の作品である『ジェットマン』から登場した凱が、「エターナルなヒーロー」として描かれていたのと対照的になり(それは二人の時間が動いているか止まっているかの決定的な差異でもあり)、これもなかなか、面白い配置に。
 偶然か運命か、奇妙な邂逅を果たす3人だが、悲鳴をあげて建物の中から逃げ出してくる人々を目にして丈が真っ先に駆け出し、それを追ったジョーとアイムが目にしたのは、ボクサーを拉致しようとする大科学者。
 「ふっふっふ、恐れることはない。おまえは生まれ変わるのだ。宇宙一の天才である、このザイエンの手によってな」
 狙い澄ましたキャスティングでしょうが、前回とは打って変わった渋い声音が、大物ぶりを印象づけてきます。
 ゴーカイチェンジしたジョーとアイムがゴーミンを蹴散らしている間に、後ろから回り込んだ丈はボクサーを助けてゴーミン相手に生身の格闘アクションを披露すると、リングから飛び降りながらの生身ライオンパンチも放ってみせる大サービスで、筋肉は、科学者の基本です!
 「やるじゃないか」
 「昔取った杵柄って、やつよ!」
 一方、宇宙大科学者は筋トレが不足していたようで、青桃のダブルデンジアッパーで殴り飛ばされると、三角形の電子機器を落として撤収。
 「こう見えてもねー。俺、科学者なんだよねー」
 丈が機器を調べると、そこに収められていたのは、バリゾーグの設計図。ザイエンは、地球で優れた筋肉の使徒たちを集めて、バリゾーグを量産しようとしていたのだった!
 バリゾーグに改造された人間は元に戻す事が出来るのか? アイムを先にガレオンへ帰したジョーは、丈の所属する科学アカデミア:大原研究室に招かれ、シド先輩の解放に一縷の望みを賭けるが、設計図を詳しく調べた丈の出した結論は……
 「改造されちまったら、二度と元には戻らない。……残念だが、人間としては死んだも同然だ」
 「そうか…………やっぱり……」
 「……このバリゾーグってのは? おまえの友達だったのか?」
 「……馬鹿だな。戦うしかないのに……先輩はもう居ないと、わかっていた筈なのに。……一瞬でも……救えるかもしれないなんて」
 覚悟はしたつもりだったとはいえジョーは激しく打ちひしがれ、仲間の前では出そうとしないであろうジョーの激情が、ゆきずりの人間関係の中でぽろっとあふれ出すのが渋い見せ方。
 「――馬鹿なんかじゃねぇよ」
 自らに言い聞かせるように言葉を重ねるジョーの方を見ないまま、丈が小さく呟く言葉に、『ライブマン』の物語とその後の20年の重みが加わって、大変良かったです。
 「……大事な仲間だったんだろ。だったら、人間でなくなろうが、敵になろうが、救えるもんなら救ってやりてぇ。悩んで当たり前だろ! 足掻いて当たり前だろ!」
 ジョーへと向き直った丈は初めてその激情を表に出し、ゴーカイジャーへの変身を見て色々と察した上だからこそ協力して設計図を調査したのでしょうが、ここで、二十数年前、怪物と化した友をそれでも救おうとした熱血漢・大原丈とシンクロする見せ方も劇的。
 「……なんてな。……こりゃ自分に言ってるのかもな」
 「……どういう事だ」
 「昔の話だ。人間を捨てて、地球征服を目論んだ同級生が居た」
 改めて客観的に言われると、地獄のような設定ですが、最近ふと思ったのが、『電磁戦隊メガレンジャー』(1997)は、『超獣戦隊ライブマン』(1988)を意識的に踏まえていたのではないかという事で、80年代(曽田)戦隊における「青春」と「科学」の二大テーゼを、90年代に真っ正面から取り上げようとしていたのではないかな、と(続く1998年の『星獣戦隊ギンガマン』にも、80年代戦隊の再構築的な要素があった事を考えると、高寺Pらしい方向性かなと)。
 「結局……俺たちは……あいつらを救ってやる事はできなかった。だから、俺はこの学校に戻って、今でも足掻いてるんだよ。若さで突っ走った学生が、同じ過ちを繰り返さないようにな」
 大変いいところなのですが、最近原典を見ている為に、キョンシーとラブレターが視界をちらついて困ります……。
 丈の言葉に重ねる形で、窓の外で二羽の蝶が虫かごから空に向けて放たれ……
 「それを……あいつらも望んでるんじゃないかと思ってな。あいつらの魂だけでも救ってやりたいからな」
 救ってやる事はできなかった「あいつら」が「ケンプら」を示している事はほぼ確実ですが、ここで、ブラインドの隙間から丈がその蝶=魂=失われた友の象徴を見つめる事により、望んでる「あいつら」には、「ケンプら」だけではなく命を奪われた側の「卓二と麻里」もかかっているのかもしれない、と思わせる見せ方が非常に鮮やかで、丈の言葉の奥行きを増しました。
 そして、「若さで突っ走った学生が、同じ過ちを繰り返さないように」は原典で繰り返し描かれている要素であると同時に、80年代に戦隊シリーズの一時代を築いた鈴木武幸プロデューサー×曽田博久メインライター期において、『科学戦隊ダイナマン』の重要なテーゼであり、そこで取り上げられた「科学者と倫理観」や、『ライブマン』における「過ち」が「戦争」を当然その視界に入れ、その影(戦災孤児)をモチーフにした『超新星フラッシュマン』、悲しみを再生産する“そんな世界”に顔を上げて立ち向かう『電撃戦隊チェンジマン』へ繋がる事を考えた時、今回は『ライブマン』を軸として80年代曽田戦隊そのもののテーマ化に至ったのではないか、と思うところ。



 「あなたは、イカルス星や、イカルス星人が恋しいかもしれない。でもそんなあなたが、様々な星を侵略し、自分と同じ哀しみを持った人々を、作り出しているのよ!」
 「強いものだけが生き残る……それが、それがバズー様の作った宇宙の掟だ!」
 「間違っているわ。……どんなに小さな星でも……どんなに弱い星でも……命の重さは変わらないわ。イカルス、あなたのお母さんだって、そう教えてくれた筈よ」

(『電撃戦隊チェンジマン』第41話「消えた星の王子!」(監督:山田稔 脚本:藤井邦夫))
 「…………魂、だけでも……」
 ――「俺たちは、宇宙に生きる者として、正しい道を選んだんだ」
 「先輩の、魂……」
 人間シド・バミックはもう、救えない……だが、シド・バミックが持っていた高潔な魂を、救う事はきっとまだ出来る。
 「……おい。同じ過ちを繰り返すなよ」
 丈の言葉に頷いたジョーは、研究室を立ち去り間際に壁際に置かれたスケートボードに気付き、口角を小さく上げて振り返る。
 「……一つ聞いていいか?」
 「ああ」
 「あんたライブマンだったのか?」
 微かな間。
 「――さぁな」
 大原丈の見せ方は、アクション面を除くと敢えてヒーローフィクションの芝居から少し逸らしているのですが、ここも抑えた渋い見せ方で、しかしそれもまた過去ヒーローの見せ方としては非常に格好良く決まりました。
 アイムの持ち帰った情報などからザイエンの目論みに気付いた海賊達は、拉致された筋肉の使徒達が旗艦に連れ去られる前にアジトへ突入し、ジョーに関しては、古株+実力者+運命の相棒にして、「信じたいじゃん。あいつが一人になるからには、それなりの理由が絶対あるって」という扱いが確立しているのが大きなポイント。
 さらわれた格闘家たちを逃がすゴーカイジャーだが、大科学者の冷凍ガス攻撃を浴びて一転ピンチに。
 「こうなればおまえ達を改造して、ワルズ・ギル様に捧げてやろう」
 ば……「バトルフィーバー怪人計画」?!
 「させるか!」
 だがそこに、ジョーが駆け付けて大科学者に切りつけ、形成は再び逆転。仲間達の視線を受けながら(心配して駆け寄るアイムの立ち位置がまたおいしい)、ザイエンをひたと見据えたジョーは、真っ直ぐにその剣を突きつける。
 「シド先輩の無念……残された者の悲しみ……この悲劇、二度とは繰り返させん!」


 「ゲーターもゾーリーも、本当に哀れな立場なんだな」
 「許せないのは、そういう宇宙人を戦いに仕向ける、星王バズーと大星団ゴズマだ!」

(『電撃戦隊チェンジマン』第27話「ゲーター親子の夢」(監督:山田稔 脚本:曽田博久))
 何が、その、“魂”を救うのか――憧れのあの人が居た過去にすがるのではなく、第二第三のあの人を生まない未来の為の戦いを選んだジョーはゴーカイチェンジし、シドが伝えてくれた「正しい道」を受け継ぎ進もうとする事で、一人の剣士としてのジョー・ギブソンが、真に断ち切るものを見出すのが極めて劇的。
 ジョーとバリゾーグ(シド)の因縁がメインで取り上げられるのは実に第12話以来の18話ぶりとなるのですが(この点は、レジェンドを優先する事を求められる今作の都合により間が空きすぎた面はあり構成上の難といえば難)、両者の間にあったものを、鎧加入後の海賊戦隊が見出しつつある航路と繋げる事でジャンプアップさせ、ジョーの視界を大きく広げたのは見事な接続でした。
 銀がスゴーミンの間をしている間に、5人はライブマン
 配信でちょうど見ているというのはありますが、やはりイントロから大変盛り上がるOPで、海賊戦隊は大科学者に怒濤の連続攻撃を浴びせて追い詰める。
 「おのれ……海賊などという下等な存在に、この私が……!」
 「俺の手で終わらせる」
 青は単独でザイエンへと歩み寄っていき、その放つ火球を次々と切り払うと、シド先輩直伝の必殺剣によりバリゾーグ改造の張本人を一刀両断し……「ザンギャックに逆らったからには逃げ続けるか死ぬか」“そんな世界”を一つ、打ち砕く。
 これをモニターしていた旗艦において、無感情なバリゾーグの顔が最初に映る(そして横から割り込んでくる殿下……)のが大変切なく、前回はエネルギーの無駄遣いと渋っていたインサーン、今回は嬉々として大科学者を巨大化(笑)
 「この私の辞書に、敗北の文字は無い」
 「ならば今から刻み込む!」
 夕陽をバックに巨大戦となり、ライブマンの“大いなる力”が発動するとスーパーライブロボのスタンドがスゴーミン部隊をざっくり蹴散らし、手裏剣とドリルの千本ノックでザイエン大爆死。
 「シド先輩……俺、もう少し足掻いてみます。……あなたの魂だけでも、救えるように」
 煌々と夜空に輝く月を背にジョーは誓い、果たして、その剣がバリゾーグの心に届く事はあるのか――ブリッジに無言で立つバリゾーグ、戦いの決意を新たにするジョーの姿で、つづく。
 大概やたらめったら格好いいジョーの個人回ですが今回も格好良く、これはまあ人気が出るわけだと改めて(笑)
 そして、各方面からハードルを上げられていた香村純子×ライブマン回でしたが、納得と満足の面白さでした。配信で試聴中の『ライブマン』がまだ半分程度なので、どちらかというと『ダイナマン』や『チェンジマン』を思い浮かべながら見ていましたが、今作の土台にある『チェンジマン』的な部分を改めて引っ張り出してきてくれたのは、嬉しかったところです。
 今作時点だと、シリーズ過去作品は〔00年代〕〔90年代〕〔それ以前〕の3分類だったと思われますが、今風にいうとレガシーであり、戦隊風にいうと、まさにプレシャスである〔それ以前〕に強くフォーカスできたことは、メタ要素も含めて戦隊史を辿る『ゴーカイジャー』にとっても大きな一本であったかな、と。


 「あの化け物達を生み出したのは私ではなかった。やはり小説など、現実には何も、生み出さないんだな」
 「香川さん。人類はドラゴンを想像する時、ドラゴンを倒す英雄もまた、想像してきました」
 「ああ……」
 「あなたの小説で、英雄を目指した子供がたくさん生まれた。その子供達は、確かに現実です」

(『轟轟戦隊ボウケンジャー』第7話「火竜のウロコ」(監督:諸田敏 脚本:會川昇))
 會川さんが見据えていたのは、更にその背後に広がる物語の裾野でありましょうが、過去の継承と、未来への夢、《スーパー戦隊》の歴史を感じさせる内容が、ジョーの前進と同調する構造も、お見事でした。
 次回――我が最愛の戦隊レッドがやってくる。